初期の経歴と家族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 09:47 UTC 版)
「ナサニエル・パーカー・ウィリス」の記事における「初期の経歴と家族」の解説
ナサニエル・パーカー・ウィリスは1806年1月20日に、メイン州ポートランドで生まれた。父のナサニエル・ウィリスはポートランドの新聞の所有者であり、祖父はマサチューセッツ州ボストン市とバージニア州西部の新聞を所有していた。母のハンナ(旧姓パーカー)はマサチューセッツ州ホリストンの出身であり、夫の提案でメイン州の「イースタン・アーガス」を編集することとなり、そのためにポートランドに移転した。ウィリスの妹のサラ・ウィリス・パートンは、後にファニー・ファーンという筆名で作家となった。弟のリチャード・ストーズ・ウィリスは音楽家かつ音楽ジャーリストとなり、クリスマス・キャロルの『It Came Upon the Midnight Clear』の作曲で知られた。その他の兄弟として、ルーシー・ダグラス(1804年生)、ルイーザ・ハリス(1807年生)、ジュリア・ディーン(1809年生)、メアリー・ペリー(1813年生)、エドワード・ペイソン(1816年生)、エレン・ホームズ(1821年生)がいた。 1816年、ウィリス一家はボストンに移転し、父が「ボストン・リコーダー」を創刊し、その9年後には、世界初の子供向け新聞「ユースズ・コンパニオン」を創刊した。父は宗教的主題を強調していたので、「助祭」ウィリスというニックネームを貰った。ウィリスはボストンのグラマースクールと、アンドーバーのフィリップス・アカデミーで学んだ後、1823年10月にイェール・カレッジに入学し、後の神学者ホレス・ブッシュネルと同室になった。ブッシュネルは剃刀の刃を研ぐ適切な方法として「踵から両方向に引いて...互いに直角に交差する摩擦を与える」ことを教えた者と、ウィリスが特定している。イェール大学では、文学に対する興味が膨らみ、他の教科を無視することが多かった。イェールを1827年に卒業し、その後に国内やカナダの各所を旅して過ごした。モントリオールでは、画家のチェスター・ハーディングと出逢い、終生変わらぬ友となった。その後の時代に、ハーディングはこの時代のウィリスのことを、「町の『ライオン』」と表現していた。ウィリスは父の「ボストン・ピアリオディカル」紙に詩を寄稿するようになり、宗教的主題では「ロイ」、他の非宗教的な主題では「カシアス」という筆名を使って、2つの文学的性格を使い分けた。同年、詩集『スケッチ』を出版した。
※この「初期の経歴と家族」の解説は、「ナサニエル・パーカー・ウィリス」の解説の一部です。
「初期の経歴と家族」を含む「ナサニエル・パーカー・ウィリス」の記事については、「ナサニエル・パーカー・ウィリス」の概要を参照ください。
初期の経歴と家族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/20 16:26 UTC 版)
ハウは1732年にジョブ・ハウの息子として生まれた。曽祖父は植民地総督のジェイムズ・ムーアであり、カロライナ植民地の南部を統治していた。父のジョブはジョン・イーマンス総督の子孫でもあった。ハウの母はノースカロライナ植民地の法学者フレデリック・ジョーンズの娘で、ジョブの最初の妻マーサだった可能性がある。ジョブ・ハウの先祖は17世紀後半と18世紀初期にサウスカロライナの農園主かつ政治家だった。ハウが生まれる前に、家族はチャールストンを離れ、ノースカロライナ植民地ケープフェア川の岸に入植した。ハウの父はムーア家の縁戚であり、ケープフェア川下流に入って、1730年代までに8万エーカー (320 km2) 以上の農地を所有していた。ジョブ・ハウは1748年に死に、その資産と富をロバートに残した。ロバートには2人の兄弟と2人の姉妹がいた。その全てがジョブの遺書に書かれていた。 ハウは若い時にイングランドに行って教育を受けさせられたが、幾つかの史料では実際に行ったのか疑問を投げかけている。教育を受けた後の1751年から1754年の間のいずれかの時点で、大きな資産の相続人だったサラ・グランジと結婚した。ハウは多くの情事を経験し、婚姻の有り無しを含め多くの子をもうけた。その中には息子のロバート、メアリーとアンの2人の娘がおり、他に母の名前が記録されていない4人までの娘がいた。同時代の者からは女たらしだと広く認められていた。1772年までにグランジと疎遠になり、離婚した。正式に離婚した年に妻の支援のために土地の権利譲渡を行っている。 ロイヤリストの同調者で日記作者のジャネット・ショーが、独立戦争前のハウについて次のように記述していた。 「 ... 私がこの国で見た中でも実に紳士らしかった。恐ろしい動物、彼の前に来るあらゆるものを吸い上げる一種の女たらしと見なされ、彼に抵抗できる女性はいなかった。しかし友人には痛みを与えないので、彼らは彼の長所を過大に扱うことを保証する。彼に耐えられるのは死の間際の女性の力であるので、見かけほど食欲旺盛ではないことを請け合う 」 。 ハウは祖母から、また父の死によって莫大な資産を相続しており、元はバーレン入り江と呼ばれた(現在はメイソン入り江と呼ばれている)場所の近くにあるコメのプランテーション、「ハウズ・ポイント」の所有者になった)。この元プランテーションだった場所は、フィギュアエイト島の対岸本土にある。また、ブレイデン郡にも「マウント・ミザリー」と呼ばれるプランテーションを所有していた。祖母が奴隷と金を遺しており、ハウはそれで自分の資産を築くつもりだった。
※この「初期の経歴と家族」の解説は、「ロバート・ハウ」の解説の一部です。
「初期の経歴と家族」を含む「ロバート・ハウ」の記事については、「ロバート・ハウ」の概要を参照ください。
初期の経歴と家族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 22:09 UTC 版)
「ルーク・ブラックバーン」の記事における「初期の経歴と家族」の解説
ルーク・プライア・ブラックバーンは1816年6月16日に、ケンタッキー州ウッドフォード郡で生まれた[a]。父はエドワード・M・ブラックバーン、母はラビニア(旧姓ベル)であり、その13人の子供の4番目だった。ブラックバーンの大叔父ギデオン・ブラックバーンは、著名な長老派教会牧師であり、ダンビルにあるセンター・カレッジの学長を務めた。ブラックバーンの親戚の多くが政治に関わっていた。母方の祖父は1799年ケンタッキー州憲法制定会議の代議員であり、叔父のウィリアム・ブラックバーンは州知事ジェイムズ・T・モアヘッドの時代にケンタッキー州上院議長代行と副知事代行を務めていた。著名政治家ヘンリー・クレイは遠い親戚であり、ブラックバーン家を訪ねることもあった。 ブラックバーンは地元公立学校で初期の教育を受けた。16歳のときに叔父で医師のチャーチル・ブラックバーンの下で医療の修業を始めた。その修行中にレキシントンやパリスで流行したコレラの患者を治療することで叔父を助けた。その後レキシントンのトランシルベニア大学に入学し、1835年3月に医学の学位を得た。卒業後はレキシントンで医療を開始し、近くのバーセイルズで流行ったコレラと戦う推進役になった。この疫病の間、治療に対する報酬を受け取らなかった。 1835年11月24日、遠戚にあたるエラ・ギスト・ボスウェルと結婚した[b]。妻の父ジョセフ・ボスウェル博士は1年前のレキシントンで流行ったコレラで死んでいた。この夫婦には息子のキャリー・ベル・ブラックバーン1人が1837年に生まれた。キャリーが生まれる直前に、ブラクバーンは麻縄と袋の製造業に大きな投資をしており、この事業が失敗したときにかなりの財産を失っていた。1843年、ブラックバーンはホイッグ党からケンタッキー州議会下院議員に選出され、1期を務めたが、特に業績は残さなかった。再選は求めず、1844年に弟と共にフランクフォートで委員を開業した。 1847年、ミシシッピ州ナチェズが経済的に繁栄していたのでそこに移転した。直ぐに地域社会の活動的な一員となり、禁酒協会の設立に貢献し、民兵隊に加わり、地元病院の管理者になった。ジェファーソン・デイヴィスやウィリアム・ジョンソンと親密な仲になった。1848年、市の健康管理官となり、ミシシッピ川バレーで黄熱病が流行した時には最初の検疫を行って成功した。ブラックバーンは私費を遣ってミシシッピ川で働く水夫のための病院を設立した。アメリカ合衆国議会に働きかけて、ミナチェズに病院を建設することに成功した。1852年に完成したときに病院の外科医に指名された。1854年、黄熱病に対して再度検疫を行い成功させた。ミシシッピ州議会がブラックバーンに、ルイジアナ州議会に働きかけて、ミシシッピ川沿いの都市を守るためにニューオーリンズで検疫所を設けるよう依頼してきた。ルイジアナ州政府はブラックバーンがそのような仕組みを構築することを承認した。 1854年9月、ブラックバーンと息子のキャリーはペンシルベニア州フィラデルフィアに旅し、著名な医者のサミュエル・D・グロスの下でキャリーが修業できるようにした。フィラデルフィアに居る間にニューヨーク市ロングアイランドに近いワシントン砦で黄熱病が流行した。ニューヨーク市長がブラックバーンに患者治療の援助を求めた。ブラックバーンはその要請を受け入れ、その奉仕に対する報酬は拒んだ。1856年11月にナチェズに戻ると、妻のエラが浮腫を患って神経質な状態にあり、熱が出ていた。ブラックバーンは妻を救おうと努力したが、その病状は悪化し、その月末前に死んだ。ブラックバーンは悲しみに打ちひしがれていたので、友人がその気持ちを癒すために以前にも話していたようにヨーロッパを旅してくることを勧めた。ブラックバーンは1857年初期に行動に移り、イングランド、スコットランド、フランス、ドイツの病院を訪れた。パリに滞在しているときに、同じケンタッキー州出身のジュリア・M・チャーチルと出会った。ジュリアは姉妹や姪と共に旅していた。ブラックバーンとジュリアは旅程を途中で打ち切り、故郷に帰って、1857年11月に結婚した。ハネムーンの後、1858年1月にニューオーリンズで新居を構え、医業を再開した。ブラックバーンが書いた短い詩によると、夫妻にはアビーという娘が生まれたが、幼児の時に死亡しており、誕生日も死亡日も不明のままである。
※この「初期の経歴と家族」の解説は、「ルーク・ブラックバーン」の解説の一部です。
「初期の経歴と家族」を含む「ルーク・ブラックバーン」の記事については、「ルーク・ブラックバーン」の概要を参照ください。
初期の経歴と家族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 05:49 UTC 版)
「ジェイムズ・クラーク (ケンタッキー州知事)」の記事における「初期の経歴と家族」の解説
ジェイムズ・クラークは1779年1月16日に、バージニア州ベッドフォード郡のピークス・オブ・オッター近くで生まれた。父はロバート・クラーク、母はスザンナ(旧姓ヘンダーソン)だった。1794年、クラーク家はケンタッキー州クラーク郡に移転した。そこでジェイムズはジェイムズ・ブライス博士(後のトランシルベニア大学教授)に教育され、またウッドフォード郡のピスガー・アカデミーに入学した。その後、兄のクリストファーと共にバージニア州に行き、法律を学んだ。1797年には法廷弁護士として認められた。短期間インディアナ州ビンセンズやミズーリ州セントルイスに旅して、法律事務所を開く場所を探したが、自分に合った場所が見つけられず、ケンタッキーに戻ってウィンチェスターで法律実務を始めた。 1809年7月2日、クラークはスーザン・フォーサイスと結婚し、夫妻には4人の子供が生まれた。スーザンは1825年に死んだ。1829年3月3日、クラークはワシントンD.C.でマーガレット・バックナー・ソーントンという未亡人と再婚した。しかしマーガレットはクラークが知事に当選した数日後の1836年8月15日に死亡した。
※この「初期の経歴と家族」の解説は、「ジェイムズ・クラーク (ケンタッキー州知事)」の解説の一部です。
「初期の経歴と家族」を含む「ジェイムズ・クラーク (ケンタッキー州知事)」の記事については、「ジェイムズ・クラーク (ケンタッキー州知事)」の概要を参照ください。
初期の経歴と家族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 15:34 UTC 版)
「ライマン・ホール」の記事における「初期の経歴と家族」の解説
1724年4月12日にコネチカット植民地のウォリングフォードで生まれた。父はジョン・ホール、母はメアリー・ストリートであった。生まれた頃は同族関係が重要視された時代であり、ホールの場合もしっかりとした係累があった。父方の祖父ジョン・ホール (1670-1730)は植民地知事委員会の委員であり、最高裁判所の判事でもあった。母方の祖父はサミュエル・ストリート牧師(ハーバード大学1664年卒)であり、ウォリングフォードでは最初の牧師だった。 ホールは1747年にイェール大学を卒業し、チェシャーで叔父のサミュエル・ホール牧師(1695-1776;イェール大学1716年卒)のところで神学を勉強した。1749年、ストラットフィールド(現在はブリッジポート)の説教師として呼ばれた。その聖職は試練の多いものとなり、ホールの聖職叙任に公然と反対する教区民集団がいた。1751年には、ある伝記によると、「証拠によって支持され、さらに彼自身の告白で裏づけられた」ホールの人格に対する告発を受け解任された。ホールは説教師の空白を避けるために2年間説教を続け、その間に医学を学び、学校で教えた。 1752年、フェアフィールドのアビゲイル・バーと結婚したが、アビゲイルは翌年に死んだ。1757年、メアリー・オズボーンと再婚した。サウスカロライナに移住し、ドーチェスターで医者として地位を築いた。ドーチェスターはチャールストンの近くにあり、何十年も前にマサチューセッツのドーチェスターから移住してきた聖公会教徒の社会ができていた。これらの開拓者がジョージアのミッドウェイ地区、現在ではリバティ郡に移住したとき、ホール医師も同行した。間もなく新しく築かれたサンベリーの町で指導的な市民の一人になった。
※この「初期の経歴と家族」の解説は、「ライマン・ホール」の解説の一部です。
「初期の経歴と家族」を含む「ライマン・ホール」の記事については、「ライマン・ホール」の概要を参照ください。
初期の経歴と家族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 08:24 UTC 版)
モーゼス・ギルは1734年1月18日に、マサチューセッツ湾直轄植民地チャールズタウンで生まれた。父はジョン・ギル、母はエリザベス(旧姓アボット)だった。両親のもとに多く生まれた兄弟の中では下の方の息子だった。兄弟の中には「ボストン・ガゼット」を発行し、植民地で良く知られた人物だったジョン・ギルも居た。ギルはボストン市で商人として事業の世界に入った。1759年、ボストンのオールドサウス教会牧師トマス・プリンスの娘であるサラ・プリンスと結婚した。妻の父が死んだ後で、夫婦はウースター郡西部の所有地を相続することとなり、そこはプリンストンの町となる最大級に大きな土地だった。1767年、実業界から引退し、夫婦はボストンとプリンストンの両方で暮らすようになった。サラは子供ができないまま1771年に死亡した。ギルは1772年にレベッカ・ボイルストンと再婚した。レベッカは影響力あるボイルストン家の子女であり、ハーバード・カレッジの後援者ニコラス・ボイルストンとは兄妹だった。再婚後も子供はできなかった。ギルの兄のジョンが死んだときに、その息子の一人を養子にした。ギルは幾人か奴隷を所有することで知られた。
※この「初期の経歴と家族」の解説は、「モーゼス・ギル」の解説の一部です。
「初期の経歴と家族」を含む「モーゼス・ギル」の記事については、「モーゼス・ギル」の概要を参照ください。
初期の経歴と家族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 02:28 UTC 版)
「ジョージ・リード (アメリカの政治家)」の記事における「初期の経歴と家族」の解説
リードはメリーランド州ノースイーストに近いセシル郡で1733年9月18日に生まれた。ジョン・リードとメアリー・ハウェル・リード夫妻の息子であった。父のジョンはアイルランドのダブリンで富裕なイギリス人だったが、若いときにメリーランド州に移住し、セシル郡チャールズタウンの創設者の一人となった。ジョージ・リードが子供のときに、家族がデラウェア州ニューキャッスル郡に転居し、クリスティアナ村の近くに定着した。成長すると、ペンシルベニア州ニューロンドンにあったフランシス・アリソン牧師の専門学校でトマス・マッキーンと知り合い、続いてジョン・モランドと共にフィラデルフィアで法律を学んだ。1753年にペンシルベニア州法廷弁護士として認められ、1年後に故郷に帰ってニューキャッスルで実習を始めた。 1763年、ガートルード・ロス・ティルと結婚した。ガートルードはニューキャッスルにあるイマヌエル教会の聖公会教区牧師ジョージ・ロス牧師の娘であり、やはり後のアメリカ独立宣言の署名者であるジョージ・ロスの姉妹で未亡人でもあった。二人の間には5人の子供、ジョン、ジョージ・ジュニア、ウィリアム、およびメアリーが生まれ、メアリーは後にデラウェア植民地知事になったガニング・ベドフォード・シニアと結婚した。リード家はニューキャッスルのストランドに住んだ。その家は現在デラウェア歴史協会が所有するリード・ハウス&ガーデンの庭にあった。家族全員がイマヌエル聖公会の会員であった。 1763年、植民地総督のジョン・ペンがリードをデラウェア3郡の検事総長に任命し、リードはこの職を1774年の大陸会議のために離れるまで続けた。またデラウェア植民地議会の議員を1764年/65年の会期から1775年/76年の会期まで通算12期務めた。
※この「初期の経歴と家族」の解説は、「ジョージ・リード (アメリカの政治家)」の解説の一部です。
「初期の経歴と家族」を含む「ジョージ・リード (アメリカの政治家)」の記事については、「ジョージ・リード (アメリカの政治家)」の概要を参照ください。
初期の経歴と家族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 05:56 UTC 版)
「ジョン・W・スティーブンソン」の記事における「初期の経歴と家族」の解説
ジョン・ホワイト・スティーブンソンは1812年5月4日にバージニア州リッチモンドで生まれた。父はアンドリュー・スティーブンソン、母はペイジ(旧姓ホワイト)であり、その唯一の子供だった。母はアメリカ独立宣言に署名したカーター・ブラクストンの孫だった。母はスティーブンソンが子供の時に死んだ。母方の祖父母、ジョンとジュディスのホワイト夫妻の元に送られ、11歳まで過ごした。その間に父は再婚した。父はバージニア州の著名な弁護士であり、スティーブンソンがまだ子供の間に政界でも名を成すに至った。アメリカ合衆国下院議員に選ばれ、後には同議長を務め、さらに後にはマーティン・ヴァン・ビューレン大統領からセントジェイムズ宮廷特命全権公使(現在の駐英アメリカ合衆国大使)に指名された。この職にあるときに、奴隷制度擁護の立場から多くの議論に巻き込まれることになった。父がそういう地位にあったので、少年のスティーブンソンはトーマス・ジェファーソンやジェームズ・マディソンと会ったことがあった。 スティーブンソンはバージニア州とワシントンD.C.で個人家庭教師に教育を受けた。父が議員を務めていたのでワシントンD.C.に住む機会が多かった。1828年、14歳でハンプデン・シドニー・アカデミー(現在のハンプデン・シドニー・カレッジ)に入学した。2年後にはバージニア大学に転入し、1832年に卒業した。卒業後は従兄弟のウィロビー・ニュートンと共に法律を勉強した。ニュートンは後にアメリカ合衆国下院議員を務めた。1839年、スティーブンソンはバージニア州で法廷弁護士として認められた。 スティーブンソンはマディソンの助言に従って、西部に入植することにした。馬で西部のフロンティアを抜けてミシシッピ川に達し、ヴィックスバーグに入った。当時のヴィックスバーグは小さな開拓地であり、満足できるような量の仕事は得られなかったので、1840年にケンタッキー州コビントンまで戻ることにし、1841年にそこを恒久的な居所とした。コビントンでは、地域の尊敬される弁護士ジェファーソン・フェルプスと共同で法律事務所を始めた。この共同事業はフェルプスが死んだ1843年まで続いた。 スティーブンソンは敬虔な米国聖公会員であり、宗派の会議に出席することも多かった。1842年11月24日にはコビントンでトリニティ・エピスコパル教会の教区役員に選ばれた。1843年、スティーブンソンはケンタッキー州ニューポート出身のシベラ・ウィンストンと結婚した。この夫妻には5人の子供が生まれた。すなわち、サリー・C・コルストン、メアリー・W・コルストン、ジュディス・W・ウィンスロー、サミュエル・W・スティーブンソン、ジョン・W・スティーブンソンだった。
※この「初期の経歴と家族」の解説は、「ジョン・W・スティーブンソン」の解説の一部です。
「初期の経歴と家族」を含む「ジョン・W・スティーブンソン」の記事については、「ジョン・W・スティーブンソン」の概要を参照ください。
- 初期の経歴と家族のページへのリンク