初期の経歴と事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/02 08:31 UTC 版)
「ハミルトン・ディストン」の記事における「初期の経歴と事業」の解説
ハミルトン・ディストンはフィラデルフィアで生まれた。父はヘンリー・ディストン、母はメアリー・スティールマンであり、その9人の子供達の中で長男だった。父はイングランドからの移民であり、フランス貴族の子孫でもあった。ディストンの父は成功した工業資本家であり、アメリカ合衆国に到着した直後は孤児であったものが、ハミルトンが子供のときにキーストーン鋸製作所を操業するほどになっていた。父は多くの機械類や鋸の特許を持っており、ヴィクトリア時代のパターナリズム(家父長主義)の精神があり、フィラデルフィア市のタコニー地区で自分の鉄鋼工場の周りに地域社会の構想を描き作り上げた。ハミルトンは公立学校に通った後、15歳のときに鋸工場での徒弟奉公を選んだ。このときの工場は国際的な事業となって、年間50万ドルを売り上げていた。ハミルトンは消防団での活動のために度々工場を抜けたため、父はハミルトンをクビにすると脅した。また、ハミルトンは2度北軍に入隊したが、父が金でその除隊を贖っただけだった。ハミルトンはゲティスバーグ方面作戦のときに鋸工場労働者の1個中隊を組織した。父のヘンリーは最後に「ディストン志願兵中隊」を財政的に支えることに合意した。 南北戦争後、ハミルトンは父の工場の取締役として働くために復帰した。1878年、父が死に、ハミルトンとその兄弟ホレス、ウィリアム、ジェイコブが会社を承継し、社名をヘンリー・ディストン・アンド・サンズと変更した。ハミルトンは、2,000人の従業員が働く会社の経営者となり、年間140万個のユミ鋸と、300万個の鑢を生産するまでに拡大した。父の死後僅か1か月後には、ラザフォード・ヘイズ大統領に工場見学を案内し、まだ形を成さない鋼片が僅か42分間で長さ26インチ (660 mm) のハンドソーに加工される様を見せ、工場見学の終わりには大統領の名前を彫ったハンドソーを贈呈した。 この鋸製造事業は成長を続ける一方で、ディストンは多角化を始め、化学会社、中国の鉄道、ニュージャージー州アトランティックシティの不動産、アメリカ合衆国西部の鉱業に出資した。
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