初期の経歴とスコットランドとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/21 13:39 UTC 版)
「ジョン・マイケル・ライト」の記事における「初期の経歴とスコットランドとの関係」の解説
ライトの出生地ははっきりとしていない。画家としてのキャリア最盛期には「イングランド人 (Anglus )」と「スコットランド人 (Scotus )」の両方の署名が見られる。イングランドの作家ジョン・イーヴリン(1620年 - 1706年)の日記ではライトをスコットランド人としており、第4代オーフォード伯ホレス・ウォルポール(1717年 - 1797年)もライトはスコットランド人であるとしている。後世の伝記作家も暫定的にではあるが、スコットランド人説をとっている。しかしながらイギリス人古美術商トマス・ハーン (en:Thomas Hearne) の1700年の記録では、ライトはロンドンのシュー・レーンで生まれ、ローマ・カトリックに改宗した際に、司祭によってスコットランドへと連れて行かれたとなっている。ライトがロンドンの出身であるということは洗礼者記録によっても裏付けられ、ロンドンのフリート街セントブライド教会の1617年5月25日の記録に、ロンドン市民の仕立屋ジェームス・ライトの息子「ミゲル・ライト (Mighell Wryghtt )」として記載されている。 現在知られているライトの若年期の記録は、1636年4月6日に当時19歳だったライトが、それなりに高名だったエディンバラの肖像画家ジョージ・ジェムソンの徒弟だったということである。エディンバラの徒弟名簿にはライトのことが「ロンドンの仕立屋、ジェームズ・Wの息子、マイケル」として記載されている。ライトがスコットランドへと渡った理由は明らかになっておらず、両親どちらかの出身地だったためか(ライトの両親はロンドンとスコットランド出身と考えられている)、あるいはロンドンで流行したペストを避けるためだったとされている。ライトは徒弟期間の間、ジェムソンの工房があったネザーバウ・ゲイト近辺のロイヤルマイルに下宿していた。徒弟期間は5年の契約だったが、ジェムソンが1639年末に投獄されたため、おそらく短縮されたのでないかと考えられる。徒弟時代にライトが描いた作品の記録はまったく残っていない。現存しているライトの最初期の作品は、1640年代にローマで描いた初代アリスベリー伯ロバート・ブルース (en:Robert Bruce, 1st Earl of Ailesbury) の小さな肖像画である。 ライトがスコットランド滞在中に妻と出会っている可能性もある。ライトの妻のことは伝わっておらず、唯一30年後の文書に「スコットランドでもっとも高貴で有名な一族と関係がある」と記されているだけである。もしこの記述が正確であれば、後年ライトが貴族階級の後援者を得ることができた理由の説明になる。このほかにライトの家族について分かっていることは、妻との間に少なくとも一人の息子がおり、名前がトマスだったということだけである。
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