初期の経歴: 1866年-1886年
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「E・W・ホーナング」の記事における「初期の経歴: 1866年-1886年」の解説
アーネスト・ウィリアム・ホーナングは1866年6月7日、イギリス、ミドルズブラ、マートンのクリーブランド・ビラで生まれた。幼いときからウィリーと呼ばれていた。父はジョン・ピーター・ホーナング(1821年-1886年)、母はハリエット(旧姓アームストロング、1824年-1896年)であり、その三男、8人兄弟の末っ子だった。父のジョンはハンガリーのトランシルヴァニア(現在はルーマニア)地方で、ジョン・ペトルス・ホーナングとして生まれ、ハンブルクの輸送会社で働いた後で、1840年代に石炭と鉄の商人としてイギリスに移って来ていた。ジョンとハリエットは1848年3月に結婚し、その時までに名前を英語化していた。ホーナングは13歳のときに、ダムフリースシャーのモファットにあるセントニニアンズ・プレパラトリースクールに入学し、その後の1880年にアッピンガム・スクールに入った。ホーナングは学校で好かれ、また終生愛好するクリケットと出逢ったが、その技巧については限界があった。さらに視力が悪く、喘息もあったので、うまくはならなかった。ホーナングの伝記作家ピーター・ローランドに拠れば、全体に病弱な状態が続いていた。 ホーナングが17歳の時に健康が悪化し、アッピンガムを離れてオーストラリアに旅した。家族はそこの気候がホーナングの健康に良いことを期待していた。ホーナングはオーストラリアのニューサウスウェールズ州南西部、リバリーナのモスジールで、パーソンズ家の家庭教師に雇われた。ここで教えることに加えて、奥地の羊小屋で働き、週刊誌「ザ・ブレティン」に記事を寄せてもいた。この頃最初の小説となるものを書き始めていた。オーストラリアでは僅か2年間を過ごしただけだが、ローランドに拠れば、その経験は「彼の人格を形成し、...作家としての経歴を始めさせる」ことになった。別の伝記作家マーク・バレンタインはホーナングが「その人生の中でも最大級に満足できる時代だと見なしていたと思われる」と記している。
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