寛永16年 (つちのとう 己卯)
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年(年号) |
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●1624年 (寛永元年) | ■スペイン船の来航禁止 |
●1629年 (寛永6年) | ■女舞・女歌舞伎の禁止 |
●1637年 (寛永14年) | ■島原の乱 |
●1639年 (寛永16年) | ■ポルトガル船の来航禁止 |
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●1641年 (寛永18年) | ■平戸商館を長崎出島に移す |
●1643年 (寛永20年) | ■田畑永代売買禁止令 |
●1651年 (慶安4年) | ■慶安の御触書公布 |
●1659年 (万治2年) | ■江戸城本丸造営竣工 |
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・ 天海僧正 | 1536年〜1643年(天文5年〜寛永20年) | 103才 |
・ 大久保 (彦左衛門)忠教 | 1560年〜1639年(永禄3年〜寛永16年) | 79才 |
・ 柳生 宗矩 | 1571年〜1646年(元亀2年〜正保3年) | 68才 |
・ 沢庵 宗彭 | 1573年〜1645年(天正元年〜正保2年) | 66才 |
・ 春日 局 | 1579年〜1643年(天正7年〜寛永20年) | 60才 |
・ 林 羅山 | 1583年〜1657年(天正11年〜明暦3年) | 56才 |
・ 松平 信綱 | 1596年〜1662年(慶長元年〜寛文2年) | 43才 |
・ 狩野 探幽 | 1602年〜1672年(慶長7年〜寛文12年) | 37才 |
・ 徳川 家光 | 1604年〜1651年(慶長9年〜慶安4年) | 35才 |
・ 由井 正雪 | 1605年〜1651年(慶長10年〜慶安4年) | 34才 |
・ 徳川 和子 | 1607年〜1678年(慶長12年〜延宝6年) | 32才 |
・ 保科 正之 | 1611年〜1672年(慶長16年〜寛文12年) | 28才 |
・ 三井 高利 | 1622年〜1694年(元和8年〜元禄7年) | 17才 |
・ 堀田 正俊 | 1634年〜1684年(寛永11年〜貞享元年) | 5才 |
・ 渋川 春海 | 1639年〜1715年(寛永16年〜正徳5年) | 0才 |
・ 幡随院 長兵衛 | ????年〜1657年(??年〜明暦3年) | ?才 |
1639年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 13:46 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動千年紀: | 2千年紀 |
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世紀: | 16世紀 - 17世紀 - 18世紀 |
十年紀: | 1610年代 1620年代 1630年代 1640年代 1650年代 |
年: | 1636年 1637年 1638年 1639年 1640年 1641年 1642年 |
1639年(1639 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
他の紀年法
- 干支 : 己卯
- 日本
- 中国
- 朝鮮
- ベトナム
- 仏滅紀元 : 2181年 - 2182年
- イスラム暦 : 1048年 - 1049年
- ユダヤ暦 : 5399年 - 5400年
- ユリウス暦 : 1638年12月22日 - 1639年12月21日
カレンダー
できごと
- 3月13日 - ハーバード大学の名称が出資者ジョン・ハーバード(John Harvard)の名にちなんで命名される。
- 8月22日 - イギリス東インド会社がマドラス(現在の正式名称はチェンナイ)の土地を取得。
- 12月4日 - 地球上からの金星の太陽面通過が起こった[1]。エレミア・ホロックスによって記録に残る初めての観測が行われた[2]。
- アメリカ、コネティカット基本法成立。
- スウェーデン、ニュースウェーデン植民地建設。
- 徐光啓の『農政全書』刊行。
日本
誕生
- 6月21日 - インクリース・マザー(Increase Mather)、アメリカ植民地時代の聖職者、教育者(+ 1723年)
- 12月21日 - ジャン・ラシーヌ、フランスの劇作家(+ 1699年)
- 渋川春海、囲碁棋士、江戸幕府初代天文方(+ 1715年)
- 中甚兵衛、大和川の治水に尽力した農民(+ 1730年)
死去
- 1月20日 - ムスタファ1世、オスマン帝国第15代スルタン(* 1592年)
- 4月2日(寛永16年2月29日) - 大久保忠教、戦国武将、『三河物語』著者(* 1560年)
- 5月21日 - トマソ・カンパネッラ、イタリアの聖職者、哲学者(* 1568年)
- 6月1日 - メルキオル・フランク、作曲家(* 1579年頃)
- 7月4日 - ペトロ・カスイ・岐部、日本人キリスト教徒、イエズス会司祭(* 1587年)
- 7月18日 - ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマル、軍人(* 1604年)
- 8月4日 - フアン・ルイス・デ・アラルコン、劇作家(* 1581年?)
- 8月7日 - マルティン・ヴァン・デン・ホーヴ(Martin van den Hove)、天文学者、数学者(* 1605年)
- 10月28日 - ステファーノ・ランディ(Stefano Landi)、作曲家(* 1587年)
- 11月3日 - マルティン・デ・ポレス、ドミニコ会士(* 1579年)
脚注
注釈
出典
- ^ “1631 December 7th Transit of Venus”. HM Nautical Almanac Office. 2017年6月16日閲覧。
- ^ Chapman, Allan (October 2004). “Horrocks, Crabtree and the 1639 transit of Venus”. Astronomy & Geophysics (The Royal Astronomical Society) 45 (5): 26. doi:10.1046/j.1468-4004.2003.45526.x.
関連項目
1639年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 06:21 UTC 版)
金星の太陽面通過の最初の観測は、イギリスのエレミア・ホロックスによって1639年12月4日(当時イギリスで使われていたユリウス暦では11月24日)に行われた。ホロックスは、当時のフィリッペ・ファン・ランスベルゲの金星の軌道表に誤りがあることを発見し、1639年に金星の太陽面通過が起こることを独自に見出した。ケプラーも次の太陽面通過は1761年に起こると考えており、1639年の太陽面通過は予測できていなかった。 ホロックスの観測は、彼の居住地であったマッチフール (Much Hoole) というイングランドのプレストンの近くにある村で行われた。彼の友人であったウィリアム・クラブトリーも、マンチェスターの近くのサルフォードから観測を行った。15時までは太陽面通過は起きないとホロックスは予測していたが、万全を期すためにその日は夜明けから一日中、断続的に観測を続けた。13時から15時までのどうしても外せない用事を済ませて観測に戻ると、太陽面通過が始まっていた。日の入り前、ホロックスは15時15分、15時35分、15時45分の太陽面上の金星位置を記録することに成功した。クラブトリーも同じく日の入りの直前に観測に成功する。観測記録をもとにしてホロックスは、地球・太陽間距離を地球の半径の約15,000倍、太陽視差で14秒と算出した。この距離は現在受け入れられている値のおよそ2/3倍程度だったが、それまで考えられていた値よりも現在の値に近いものであった。 ホロックスは1641年に、クラブトリーは1644年に死去する。ホロックスは自身とクラブトリーの観測記録を論文にまとめたが存命中に出版されることはなかった。この原稿は1662年にヨハネス・ヘヴェリウスによって出版され、彼の業績が日の目を見ることになる。
※この「1639年」の解説は、「金星の太陽面通過」の解説の一部です。
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