堀田 正俊とは? わかりやすく解説

ほった‐まさとし【堀田正俊】

読み方:ほったまさとし

[1634〜1684]江戸前期政治家下総(しもうさ)古河(こが)藩主将軍徳川綱吉擁立に功をあげて大老となったが、殿中若年寄稲葉正休(まさやす)に刺殺された。


堀田正俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/11 04:46 UTC 版)

 
堀田 正俊
時代 江戸時代前期
生誕 寛永11年11月12日1634年12月31日
死没 貞享元年8月28日1684年10月7日
改名 正吉(幼名)→正俊
別名 久太郎(通称
戒名 不矜院殿又新叢翁大居士
墓所 千葉県佐倉市新町の甚大寺
官位 従五位下、従四位下、備中守、筑前
幕府 江戸幕府奏者番若年寄老中大老
下総守谷藩主→上野安中藩主→下総古河藩
氏族 堀田氏
父母 父:堀田正盛、母:酒井忠勝の娘
養母:春日局
兄弟 正信脇坂安政正俊正英南部勝直
正室:稲葉正則の娘
正仲正虎正高正武
テンプレートを表示

堀田 正俊(ほった まさとし)は、江戸時代前期から中期の大名江戸幕府老中大老上野安中藩主。後に下総古河藩の初代藩主。正俊系堀田家初代。

生涯

寛永11年(1634年)11月12日、第3代将軍徳川家光政権下の老中・堀田正盛の三男として生まれる。寛永12年(1635年)に義理の曾祖母に当たる春日局の養子となり、その縁から寛永18年(1641年)、家光の嫡男・竹千代(徳川家綱)の小姓に任じられて頭角を現した。寛永20年(1643年)、家光の上意で春日局の孫に当たる稲葉正則の娘と婚約、春日局の遺領3000石を与えられている。

慶安4年(1651年)、家光の死去に際して父・正盛が殉死すると、遺領のうち下野新田1万石を分与され、守谷城1万3000石の大名となる。同時に従五位下・備中守に叙位・任官する。その後も4代将軍・家綱の時代に順調に昇進し、明暦2年(1656年)に稲葉正則の娘と結婚、正則の後見を受けて万治3年(1660年)には奏者番となり、上野安中藩2万石を与えられた。同年に長兄の堀田正信が改易されたが、お咎めは無かった。寛文10年(1670年)に若年寄となり、延宝7年(1679年)に老中に就任し、2万石の加増を受けた。

延宝8年(1680年)、家綱の死去にあたり、家綱政権時代に権勢をもった大老・酒井忠清と対立して家綱の異母弟である綱吉を推したという。綱吉が5代将軍に就任すると大手門前の忠清邸を与えられ、天和元年(1681年12月11日、忠清に代わって大老に任ぜられる。就任後は牧野成貞と共に「天和の治」と呼ばれる政治を執り行ない、特に財政面において大きな成果を上げた。

しかし貞享元年(1684年)8月28日、従叔父で若年寄の美濃青野藩主・稲葉正休江戸城内で刺殺された[注 1]享年51。幕府の記録によれば発狂のためとされているが、事件は様々な臆測を呼び、大坂の淀川の治水事業に関する意見対立や、正休もその場で殺害されていることから、将軍綱吉の関与も囁かれた。

家督は長男の正仲への相続が許されるが、屋敷地や所領は移転されている。

墓所は浅草の金蔵寺にあったが、1936年に佐倉市新町の安城山不矜院甚大寺に移され正睦正倫の墓とともに並ぶ[1]

暗殺陰謀説

正俊が暗殺される直前に綱吉は生類憐れみの令を布くことを表明しており、正俊はこれに反対していた。また、正俊には綱吉を将軍に就任させた功績があり、大きな発言力を持っていたと推測される。そのため両者の間に溝が生まれたことから、「綱吉による陰謀説」がある[2]。またこの事件以降、老中・若年寄の幕閣が政務を行う場所は、将軍の応接所である中奥御座之間から、表と中奥の間に新たに設けられた御用部屋に移動した。このため綱吉と幕閣の間に距離が生じ、両者を取り次ぐ柳沢吉保・牧野成貞ら側用人が力を持つこととなった。

系譜

父母

正室

側室

  • 奥山氏

子女

登場作品

映画
テレビドラマ
漫画

参考文献

脚注

注釈

  1. ^ 即死ではなく、医師に手当をされた後、重体のまま自邸に運ばれ息を引き取っている。

出典

  1. ^ 佐倉市の文化財-史跡(2)「墓・碑 など」”. 佐倉市. 2020年3月15日閲覧。
  2. ^ 海音寺潮五郎「大老堀田正俊」『改造』1936年1月号; 小川和也『儒学殺人事件』2014年

堀田正俊(ほった まさとし)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 00:33 UTC 版)

浪人若さま新見左近」の記事における「堀田正俊(ほった まさとし)」の解説

酒井代わり大老の座に就く。一時左近の命を狙おうと画策したものの綱吉将軍になったことで小言は言うものの双方の関係は前に比べて穏やかなものになった自分綱吉将軍就けたという自負持ち、段々力を付けていく柳沢に対して良い感情抱いていない。また生類憐みの令に関して批判的な立場を取る。それ以外にも遠慮のない物言い綱吉の癇に障り柳沢企みにより城中殺害されることになる。

※この「堀田正俊(ほった まさとし)」の解説は、「浪人若さま新見左近」の解説の一部です。
「堀田正俊(ほった まさとし)」を含む「浪人若さま新見左近」の記事については、「浪人若さま新見左近」の概要を参照ください。


堀田正俊(ほった まさとし)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 18:29 UTC 版)

大殺陣」の記事における「堀田正俊(ほった まさとし)」の解説

若年寄酒井敵対関係にあったために謀反罪を着せられ幽閉されるが、北条尽力により、粛清免れて復職する。

※この「堀田正俊(ほった まさとし)」の解説は、「大殺陣」の解説の一部です。
「堀田正俊(ほった まさとし)」を含む「大殺陣」の記事については、「大殺陣」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「堀田 正俊」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



堀田 正俊と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「堀田 正俊」の関連用語

堀田 正俊のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



堀田 正俊のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
江戸net江戸net
Copyright (C) 2024 財団法人まちみらい千代田 All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの堀田正俊 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの浪人若さま新見左近 (改訂履歴)、大殺陣 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS