ほった‐まさとし【堀田正俊】
堀田 正俊 (ほった まさとし)
1634〜1684 (寛永11年〜貞享元年) |
【大老】 この人がいなければ徳川は四代で終わりに?綱吉将軍就任の最大功労者。 |
江戸前期の大老。下総古賀の藩主。春日局の養子となり、4代将軍家綱の小姓から老中にのぼる。家綱死去の際、京都から宮将軍を迎えようとする大老酒井忠清に、ただ一人綱吉の将軍擁立を主張。綱吉が将軍となると、その功で大老に出世、綱吉の初期政治を支えた。江戸城内で身内の若年寄稲葉正休に刺殺された。 |
年(和暦) | ||
●1637年 (寛永14年) | ■島原の乱 | 3才 |
●1639年 (寛永16年) | ■ポルトガル船の来航禁止 | 5才 |
●1641年 (寛永18年) | ■平戸商館を長崎出島に移す | 7才 |
●1643年 (寛永20年) | ■田畑永代売買禁止令 | 9才 |
●1651年 (慶安4年) | ■慶安の御触書公布 | 17才 |
●1659年 (万治2年) | ■江戸城本丸造営竣工 | 25才 |
●1663年 (寛文3年) | ■武家諸法度改定 | 29才 |
●1681年 (天和元年) | ■護国寺建立 | 47才 |
●1682年 (天和2年) | ■江戸大火(八百屋お七の火事) | 48才 |
・渋川 春海 | 1639年〜1715年 (寛永16年〜正徳5年) | -5 |
堀田正俊
堀田正俊(ほった まさとし)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 00:33 UTC 版)
「浪人若さま新見左近」の記事における「堀田正俊(ほった まさとし)」の解説
酒井に代わり大老の座に就く。一時は左近の命を狙おうと画策したものの綱吉が将軍になったことで小言は言うものの双方の関係は前に比べて穏やかなものになった。自分が綱吉を将軍に就けたという自負を持ち、段々力を付けていく柳沢に対して良い感情を抱いていない。また生類憐みの令に関しても批判的な立場を取る。それ以外にも遠慮のない物言いが綱吉の癇に障り柳沢の企みにより城中で殺害されることになる。
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堀田正俊(ほった まさとし)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 18:29 UTC 版)
「大殺陣」の記事における「堀田正俊(ほった まさとし)」の解説
若年寄。酒井と敵対関係にあったために謀反の罪を着せられて幽閉されるが、北条の尽力により、粛清を免れて復職する。
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