堀田本
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山梨県立博物館蔵(2006年(平成18年)に収蔵)。紙本着色。上・中・下の巻子本で、それぞれ題箋があり後筆のペン書きで「上」「中」「下」と記される。寸法は上巻が縦34.5センチメートル、横1953.1センチメートル、中巻は縦34.5センチメートル、横1681.0センチメートル、下巻は縦34.5センチメートル、横1797.9センチメートル。上・中・下巻の構成は諸本と同じ。奥書や箱書など関連資料は皆無であるが、随所に「堀田文庫」の蔵書印(印の寸法は縦7.4センチメートル、横1.6センチメートル)が残され、近江堅田藩主で若年寄の堀田正敦の収集した堀田文庫の旧蔵本であることが指摘されている。 諸本との校合によれば堀田本は文言がかな文主体である特徴をもつ前育本・東博本との共通性が指摘されるほか、朱注の補訂は群書類従本と共通している。これらの特徴から堀田本は前育本・東博本と同系統の伝本を基に、屋代弘賢による群書類従本の補注を参照して校訂されたものであると考えられており、中世から伝来した七十一番職人歌合の忠実な写本であると同時に、同時代の学知を反映させた資料であると評価されている。なお、群書類従本は序文によれば絵画部分を住吉内記家の伝本を模写したとされており、群書類従本の一部の職人像は堀田本とのみ共通する特長をもつことが指摘されている。 堀田文庫を所蔵した堀田正敦は寛政期の大名で、好学の人物として知られ特に和歌には造詣が深い。寛政の改革を主導していた松平定信とも親交があり、寛政改革における文教政策振興に携わり『寛政重修諸家譜』の編纂を発案している。 堀田文庫に含まれる諸資料は原資料の忠実な模写と異本との比較・校合による検証を加えている点が特徴とされ、堀田本の七十一番職人歌合も同様の特徴を持つ。また、正敦は群書類従を刊行した塙保己一とも親交があるほか和学講談所の設立への支援も行っており、堀田本七十一番職人歌合のみならず堀田文庫に含まれる諸本作製の背景にはこうした知的ネットワークの存在が考えられている。 模写作業の開始は『観文禽譜』の完成した寛政6年(1794年)頃に想定されており、校合作業の開始は文化11年(1814年)頃に推定されている。堀田正敦は天保3年(1832年)に死去しているが、堀田本の校合作業は中途終了しており、未完成なままとなっている。
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