稲生物怪録
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『稲生物怪録』(いのうもののけろく、いのうぶっかいろく)は、江戸時代中期の寛延2年(西暦1749年)に、備後三次(現在の広島県三次市)に実在した稲生正令、通称・稲生武太夫(幼名・平太郎)が16歳の年に体験したという、妖怪にまつわる怪異をとりまとめた物語。
- ^ a b c d 杉本好伸・稲生小菊「稲生小菊さんインタビュー 現実の「稲生家」の物語と、〈稲生物怪禄〉」『西鶴と浮世草子研究』第2巻、笠間書院、2007年11月、 10-26頁。
- ^ “ID: 1808351 三次実録物語 ( みよしじつろくものがたり )”. 日本古典籍総合目録データベース. 2021年1月1日閲覧。
- ^ a b 『改訂版・妖怪いま甦る : 「稲生武太夫妖怪絵巻」の研究』三次市教育委員会 (2013年)
- ^ “《稲生物怪録》- 三次の妖怪物語 - | 三次もののけミュージアム”. miyoshi-mononoke.jp. 2020年2月11日閲覧。
- ^ 稲生物怪録 - 三次もののけミュージアム
- ^ 怪異な「もののけミュージアム」 三次で注目、日本初の妖怪博物館 - 山陽新聞
- ^ 妖怪博物館がオープン=広島県三次市〔地域〕 - 時事通信
- ^ 妖怪博物館、大丈夫? 12億円かけ収益は年290万円 - 朝日新聞
- ^ 森「モノノケ・モノノサトシ・物恠・恠異―憑霊と怪異現象とにかかわる語誌」『国語国文学研究』1991年
- ^ 田中貴子 (2007年1月14日). “谷崎潤一郎旧邸「鎖瀾閣」の危機を憂う”. 夏への扉. 2009年6月2日閲覧。
- ^ “日本絵本書誌の記述法”. terpconnect.umd.edu. 2020年2月11日閲覧。
- ^ “稲生物怪録の絵巻、見つかった 三次の妖怪博物館で「里帰り」公開 | 中国新聞デジタル”. archive.is (2020年12月21日). 2020年12月21日閲覧。
- 1 稲生物怪録とは
- 2 稲生物怪録の概要
- 3 書名の読み方について
- 4 脚注
稲生物怪録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 08:08 UTC 版)
詳細は「稲生物怪録」を参照 稲生平太郎16歳の時、寛延2年(1749年)の5月末の夕方、隣家の三ッ井権八とともに、比熊山で肝試しの百物語をしたことがきっかけで、7月1日から30日間のうちに、彼らの身の回りで怪異現象が続出した。このときの彼の体験は、『三次実録物語』という書として記され、原本は広島藩在住の稲生武太夫の子孫に伝えられてきている。妖怪の親玉、山本太郎左衛門から貰った木槌は享和2年(1802年)に平太郎の手により國前寺に納められ、現存している。 また、柏正甫(かつら せいほ)という武太夫の同役の武士が、夜を徹して本人から詳しい話を聞き出して、天明3年(1783年)、『稲生物怪録』として書き留めた。これを国学者、平田篤胤が寛政11年(1799年)に筆写して秘蔵し、文化8年(1811年)に門下生に校訂させた。篤胤の校訂本が元になって、読物や絵巻となり、明治以降、泉鏡花や巖谷小波の小説、折口信夫の俄狂言の題材となった。また、稲垣足穂によって、現代語訳されたりもした。 稲生武太夫を祭っている稲生神社(広島市南区)には、荒俣宏や京極夏彦・水木しげるも作品取材のために足を運んでいる。
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