屋代弘賢とは? わかりやすく解説

やしろ‐ひろかた【屋代弘賢】

読み方:やしろひろかた

[1758〜1841]江戸後期国学者江戸の人。号、輪池。幕府書役(かきやく)・右筆となり、塙保己一(はなわほきいち)を助けて群書類従編纂参加和漢の書を収集し蔵書家として知られた。編著古今要覧稿」など。


やしろひろかた 【屋代弘賢】


屋代弘賢

読み方やしろ ひろかた

江戸後期国学者。諱は詮虎、のち詮賢・弘賢・詮文、号は輪池。江戸生。国学塙保己一に学ぶ。また書道尹祥に師事し松平定信認められ幕府右筆となり、『寛政重修諸家譜』『古今要覧』等の編集携わる一方和漢典籍収集努め、その蔵書を〈不忍文庫〉と称した著書に『参考伊勢物語』『輪池叢書』等がある。天保12年(1841)歿、84才。

屋代弘賢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/18 17:24 UTC 版)

 
屋代弘賢
屋代弘賢32歳像と83歳像
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦8年(1758年
死没 天保12年閏1月18日1841年3月10日
改名 詮虎、詮賢、弘賢、詮丈
別名 太郎(通称)、輪池(号)
墓所 文京区の妙清寺
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
氏族 屋代氏
父母 屋代佳房
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屋代 弘賢(やしろ ひろかた)は、江戸時代中期から後期にかけての江戸幕府幕臣国学者。通称は太郎。号は輪池[1]

経歴

江戸神田明神下の御家人屋代忠太夫佳房の子として誕生。初名は詮虎。その後、諱を詮賢、弘賢、詮丈の順に改める。

7歳の時から幕府右筆森尹祥に書を学び、安永8年(1779年)22歳で家督を継いだ。天明元年(1781年)西丸台所に出仕した。柴野栗山に従い、天明2年(1782年)に幕府の表右筆として出仕する。天明6年(1786年)、本丸附書役となる。寛政5年(1793年)、奥右筆所詰支配勘定格となり、文化元年(1804年)3月、勘定格として御目見以上(旗本)に昇進した。文化2年(1805年)、ロシアに対する幕府の返書を清書した。

塙保己一国学を学んで『群書類従』の編纂に加わる。後に和学講談所の会頭を務めた。死没時は、奥右筆所詰奥右筆格。有職故実書誌学に優れていた他、仕事柄能書家としても知られていた。幕命によって『寛政重修諸家譜』・『古今要覧稿』・『集古十種』の編纂にも従事した。京都・大和の古社寺を訪れ古宝物の調査をしたときの記録『道の幸』を著している。柴野栗山成島司直小山田与清大田南畝谷文晁らとも親交があった。

また、弘賢は蔵書家としても知られ、上野不忍池のほとりに蔵書5万冊を納めた書庫を築いて「不忍文庫」と命名され、蔵書目録『不忍文庫目録』(朝倉治彦編『屋代弘賢・不忍文庫蔵書目録』全6巻 ゆまに書房、2001年)に出版されている。

著書

金石記
  • 『金石記』風俗絵巻図画刊行会・芸苑叢書 1923
  • 『参考伊勢物語』岩波文庫 1928
  • 『古今要覧稿』全6巻別巻1 原書房 1981-82 

参考文献

関連項目

脚注

  1. ^ 人物略歴”. 国立国会図書館. 2022年10月29日閲覧。

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