堀田正仲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/26 15:47 UTC 版)
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛文2年7月19日(1662年9月1日) |
死没 | 元禄7年7月6日(1694年8月26日) |
別名 | 通称:左京 |
諡号 | 常楽公 |
戒名 | 常楽院殿其阿法漢映性大居士 |
墓所 | 神奈川県藤沢市西富の清浄光寺 |
官位 | 従五位下、従四位下下総守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉 |
藩 | 下総古河藩主→出羽山形藩主→陸奥福島藩主 |
氏族 | 堀田氏 |
父母 | 堀田正俊、稲葉正則娘 |
兄弟 | 正仲、正虎、正高、正武 |
妻 | 池田綱政娘・松 |
子 |
正徳 正虎 |
堀田 正仲(ほった まさなか)は、江戸時代前期の譜代大名。下総国古河藩2代藩主、出羽国山形藩主を経て、陸奥国福島藩初代藩主。官位は従四位下・下総守。正俊系堀田家2代。
生涯
寛文2年(1662年)、当時は上野国安中藩主で老中であった堀田正俊の長男として誕生。貞享元年(1684年)8月、父が稲葉正休に暗殺されると、大久保忠朝や阿部正武らと協力して正休を討った。同年10月、家督を継ぐ。このとき、双子の弟の正虎に2万石(下野国大宮藩)を分与し、正高に1万石(下野佐野藩)を分与したため、自らの所領は10万石となった。
貞享2年(1685年)6月、出羽山形に移封される。貞享3年(1686年)7月には陸奥福島に移封された。しかし、これらの移封は父が暗殺されたために行われた処罰的な移封であり、しかも福島藩は悪地が多く実高が低かったため、藩財政が窮乏した。このため、正仲は家臣団の解雇を始め、年貢や運上金を厳しく取り立てる重税の措置を執った。さらに、領民に対して特産物である絹織物に絹役、飯坂温泉を始めとする領内の各温泉に湯投銭を課すなど、様々な重税を強いて領民を苦しめた。しかし5代将軍・徳川綱吉からは寵愛され、「頗る功あり」とまで賞された。
元禄7年(1694年)7月6日に死去した。享年33。跡を双子の弟・正虎が養子となって継いだ。
系譜
堀田正仲
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奥平家の後を受けて、下総古河藩より堀田正仲が入部した。正仲は第5代将軍徳川綱吉時代の大老正俊の子で、正俊は綱吉初期の政権を掌握して天和・貞享の治と称される幕政を行ったが、貞享元年(1684年)8月28日に江戸城において若年寄稲葉正休により刺殺された。このため、跡を継いだ正仲は懲罰として山形に左遷された。左遷されたと見る理由として、古河の堀田家は13万石だったが、山形では10万石に減封されている点なども上げられる。正仲は1年弱在封し、翌貞享3年(1686年)に陸奥福島藩に転封となった。
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