松平忠雅とは? わかりやすく解説

松平忠雅

読み方まつだいら ただまさ

江戸中期大名白川生。備後福山城主、のち伊勢桑名城主となる。延享3年(1746)歿、64才。法名大梁院仁獄紹裕。

松平忠雅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/30 06:35 UTC 版)

 
松平忠雅
松平忠雅
時代 江戸時代中期
生誕 天和3年9月24日1683年11月12日
死没 延享3年6月20日1746年8月6日
改名 斎宮、忠雅
別名 左膳(通称
戒名 大梁院殿仁嶽紹裕大居士
墓所 東京都台東区天眼寺
官位 従五位下下総守従四位下左近衛少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗家重
出羽山形藩主→備後福山藩主→伊勢桑名藩
氏族 奥平松平家
父母 松平清照:安西氏
養父松平忠弘
兄弟 忠雅、浅姫、牧野成春正室、大沢基隆正室
正室毛利綱広の娘・
側室:永林院、松平定重の娘
蜂須賀宗純忠刻井伊直存忠張、清性院、松平武元正室、津也、真田幸詮正室、光相院ら
テンプレートを表示

松平 忠雅(まつだいら ただまさ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名出羽国山形藩2代藩主、備後国福山藩初代藩主、伊勢国桑名藩初代藩主。官位従四位下左近衛少将親藩奥平松平家3代。

経歴

天和3年(1683年)9月24日、松平清照の長男として誕生。病弱であった清照に代わって入嗣した叔母婿の忠尚を差し置き、忠雅が祖父・忠弘の養嗣子として元禄5年(1692年)に家督を継いだ。

元禄13年(1700年)、山形より福山へ移封する。10年後の宝永7年(1710年)には伊勢桑名藩へ移封する。山形・福山各藩の治世はいずれも短期間のため、記録がほとんど残っていないが、桑名の地では忠雅以降、7代が113年に亘って治めた。この間、桑名藩政の改革や藩校進脩館の基礎を築くなど、評価は高い。

延享3年(1746年)6月20日に死去した。享年64(満62歳没)。跡を三男・忠刻が継いだ。

系譜

父母

正室

側室

子女

脚注

  1. ^ 初名・松平清純、蜂須賀宗英の養子
  2. ^ 初名・松平清淳、井伊直員の養子

外部リンク




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「松平忠雅」の関連用語

松平忠雅のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



松平忠雅のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの松平忠雅 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS