水野勝岑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/14 17:06 UTC 版)
水野 勝岑(みずの かつみね)は、江戸時代前期の譜代大名。備後国福山藩の第5代藩主。水野宗家5代。
注釈
- ^ 「家の長等」[2]。
- ^ 『徳川実紀』では「五月朔日」とある[2]。「御目見の翌日に死去した」と記載する文献もあるが、『徳川実紀』『寛政譜』に御目見の記述はない。
- ^ 勝長は延宝7年(1679年)生まれ[1]。
- ^ 勝成は同族の水野勝信を養子に迎えて四男として処遇しているため、勝信を数えず勝則を「四男」、勝忠を「五男」とすることもある。
- ^ 勝寿の父・勝則は一時期幕府に出仕して3000石の旗本となったが、病のために務めを辞して備後福山に住んだ[6]。勝寿は福山藩に仕えた[6]。勝寿の通称について、『寛政譜』は「内蔵進」とする[6]。
- ^ 福山藩は水野氏のあと、代官支配を経て、松平氏・阿部氏と交代した。水野氏時代には新田開発が進められた結果、表高10万石に対して実高が15万石ともされるようなゆとりがあったが、松平氏・阿部氏の時代には実高も10万石程度に切り詰められ、財政的なゆとりが無くなった[16]。最後の領主となった阿部家には有能な藩主が多く、幕政参加の志向も強かったが、幕政参加のために必要となる費用は多額であり、農民の立場では年貢の収奪強化としてあらわれるものとなったために多くの一揆が誘発された[16]。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『寛政重修諸家譜』巻三百二十八「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.834。
- ^ a b c d e f g 『常憲院殿御実紀』巻三十七・元禄十一年五月三十日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第四編』p.598。
- ^ a b 福山市中央図書館(回答) (2022年1月20日). “水野勝岑の墓所について知りたい”. レファレンス協同データベース. 2022年12月25日閲覧。
- ^ a b c 木原徹也 1986, p. 22.
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻三百二十九「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.841。
- ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻三百二十八「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.833。
- ^ a b “山野学区まちづくり計画”. 山野まちづくり推進委員会. p. 56 (2015年). 2022年12月24日閲覧。
- ^ 『広島県史 近世資料編 1』広島県/編,広島県,1973 (ID:1002288502 ) (p.837)
- ^ 『福山市史 中巻』福山市史編纂会/編,福山市史編纂会,1968 (ID:1002287652 ) (p.340)
- ^ a b 引野亨輔 2010, p. 72.
- ^ 中山善照 1987, p. 100.
- ^ 引野亨輔 2010, p. 70.
- ^ a b c d e f g 引野亨輔 2010, p. 71.
- ^ a b 引野亨輔 2010, pp. 72–73.
- ^ 引野亨輔 2010, p. 73.
- ^ a b c 引野亨輔 2010, p. 78.
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