初代福山藩主とは? わかりやすく解説

初代福山藩主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 01:37 UTC 版)

水野勝成」の記事における「初代福山藩主」の解説

元和5年1619年)、福島正則改易に伴い勝成は秀忠から郡山替わって備中西南部と備後南部福山10万石を与えられる備後国は勝成が放浪時代過ごした場所であったため地の利詳しく受領当たって幕府尾道笠岡との交換要求し認めさせたといわれる。入封に際して海上交通重視し当時中心地であった神辺政庁であった神辺城代えて瀬戸内海に近い今日福山市新たな城(福山城)と城下町福山)を築いた福山城は『武家諸法度』で新規築城禁止された中で例外的に認められ近世城郭最後の城であり、5重の天守に7基の3重長大多聞櫓を持つ天下普請同等江戸幕府西国鎮衛の要所として築かれ10万石の城としては破格の巨城であった福山入封後は藩政尽力し放浪時代臣従し後に没落していた三村親成高禄家老職迎えるなど、放浪時代人脈生かし在地領主郷士積極的に登用した。城下町の建設当たっては、江戸神田上水に次ぐ規模を持つ上水道網(福山旧水道)を整備し瀬戸内海から運河を城まで引き入れると共に大船団を組織し城下係留させた。産業育成では土地無償与え地子免除するなどして城下振興図り寛永7年1630年)には全国初ともいわれる藩札発行したまた、イグサ生産統制し福山藩生産される畳表は「備後表」と呼ばれ全国最高級品として知られた。治水工事新田開発鉱山開発タバコ栽培積極的に行い現在の福山市の礎を築いた。特に新田開発は後の水野勝岑死去に伴う改易の際の検地では約5万分の新たな石高有していた。この他備後国一宮である素盞嗚神社吉備津神社始めとする備後国各地寺社復興し旧領である郡山刈谷からも寺社移転させるなど、宗教保護にも積極であった家臣統制には目付などの監視役置かず法度発布誓詞を取ることもなかったが、問題生じず、この噂を耳にした隣国備前岡山藩藩主池田光政は「良将の中の良将」と評したという。 水野時代福山では、一度農民一揆起こっていない。 寛永元年1624年)、浅野家の亀田高綱出奔騒動調停する寛永3年1626年)には第3代将軍・徳川家光の上洛に従い従四位下に昇進し相模国愛甲郡厚木現在の神奈川県厚木市)の1,000石を加増される。寛永10年1633年)、家光不興をかった酒井重澄を預かる。寛永14年1637年)、江戸城本丸天守建設に功があり、水野家江戸屋敷奉行は銀、時服等を賜った

※この「初代福山藩主」の解説は、「水野勝成」の解説の一部です。
「初代福山藩主」を含む「水野勝成」の記事については、「水野勝成」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「初代福山藩主」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「初代福山藩主」の関連用語

初代福山藩主のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



初代福山藩主のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの水野勝成 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS