水野時代とは? わかりやすく解説

水野時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/06 07:18 UTC 版)

備後福山藩」の記事における「水野時代」の解説

福山藩幕府毛利家などの中国筋の有力外様大名対する「西国の鎮衛」として水野勝成備後地方与えたことに端を発する藩で、明治維新まで歴代有力な譜代大名配された。 関ヶ原の戦い以降、後に福山藩となる備後国安芸国と共に福島正則によって領有498千石)されていた。しかし、正則広島城無断修築の咎で元和5年1619年)に改易となり、領地分割され安芸および備後北部西部浅野長晟42万石)に与えられ備後南部には徳川家康従兄弟大坂の陣では後藤基次を破るなど卓越した戦歴を持つ水野勝成が、大和国郡山藩(6万石)から4万石加増受けて10万石で入封することになった当初領地構成備後国深津郡安那郡沼隈郡 神石郡 品治郡 葦田郡、備中国小田郡後月郡それぞれ大半であった現在の行政区分では福山市全域尾道市東部府中市全域三次市庄原市南部笠岡市井原市西部神石高原町大半である)。 勝成は入封と同時に福山城城下町の建設着手し福山城4年近い歳月費やし元和8年1622年)に完成したまた、勝成は新田開発灌漑事業産業育成を行うなど領内経営努め藩政基礎築いた寛永3年1626年)には勝成の従四位昇進により福山藩領は相模国愛甲郡厚木現在の神奈川県厚木市)に飛び地1000石の加増を受け、計10万1000となった寛永15年1638年)の島原の乱において、勝成及び子の勝俊、孫の勝貞率い福山藩兵約6000人は、幕府上使除き九州の大名以外で唯一幕府軍参戦した。翌16年1639年)に勝成は隠居したが、その後隠居料2万石)のほとんどを新田開発用水路整備費やしたという。 慶安4年1651年)の勝成の死後、勝俊、勝貞、勝種と続くが勝成の政策基本的に踏襲され福山藩着々と発展遂げていき、藩成立当初農民全体の7割以上であった小作民もほぼ0となったこの間石高は約3万石増加した)。しかし元禄10年1697年)、勝種の急死により生後間もなくで跡を継いだ5代・勝岑が元禄11年1698年)に2歳死去し水野家改易となった。これに対し一部藩士領民水野家存続求めて福山城籠城する動き見せるが、家臣説得により間もなく静まったという。水野家名門の故で勝成の孫・水野勝長能登国西谷藩1万石に取り立てられ家名存続された。

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