明治維新まで
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約2000年前 大板井遺跡、小郡若山遺跡等に定住の痕跡 4世紀頃 津古生掛古墳、三国の鼻1号墳などの古墳が造られる 6世紀頃 三国丘陵・花立山麓に群集墳 7世紀頃 上岩田、井上に大寺院。小郡官衙遺跡 1359年-筑後川の戦い(大原合戦・大保原合戦) 1374年-福童原の戦い 1624年-干潟に石井堰築造 1647年-稲吉堰築造 1668年-有馬豊祐により松崎藩立藩。 1672年-松崎陣屋築城 1673年-津古堰築造 1674年-松崎宿設置 1684年-松崎陣屋廃城。松崎藩廃藩 1772年-大板井堰築造
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明治維新まで
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田中藩第5代藩主本多正意の七男(六男とも)として生まれる。 安政3年(1856年)12月22日、兄正寛の養子となる。安政4年(1857年)11月15日、将軍徳川家定に拝謁する。同年12月16日、従五位下伯耆守に叙任する(後に紀伊守に改める)。万延元年(1860年)閏3月16日、正寛の死去を受けて家督を継ぎ、田中藩第7代藩主となる。 文久2年(1862年)11月4日、新設された学問所奉行の一人に就任する(相役は秋月種樹)。文久3年(1863年)、下総国に所在した田中藩飛び地領の管轄のため、流山郊外の加村に屋敷(加村陣屋)を建設し、江戸深川にあった下屋敷の人員を移転した。 元治元年(1864年)7月21日、駿府城代に就任。戊辰戦争中の慶応4年(1868年)2月12日、尾張藩が派遣した勤皇誘引使都筑九郎右衛門に勤皇証書を渡して、駿府城引渡しに同意した。徳川宗家当主徳川家達が駿河国・遠江国に移されると(静岡藩)、6月13日に家達に駿府城を引き渡す。また徳川家の静岡入封にともない、田中藩4万石には新政府から安房国・上総国に4万石の代替地を与えられ、同年7月13日移転を命じられた(長尾藩)。
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