明治維新の批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:50 UTC 版)
宮澤誠一によると、明治以降の忠臣蔵物の特徴として、欧化主義の時代には「義士」としての四十七士像は批判され、国粋主義・日本回帰の時代には「義士」は賛美される傾向にあるという。 明治元年11月5日には、明治天皇が泉岳寺の大石らの墓に対して、勅使を遣わし、勅旨を述べ、金幣を届けさせた。松島栄一によれば、この件は四十七士が義士であるという論功行賞になってしまったという。この件は四十七士の義士像を天皇の公認のものとし、それはそのまま明治政府公認の立場ととらえられ、義士を賛美・称揚する人に利用されることになる。そして同時に、君主・浅野内匠頭に対する義士の忠誠が、天皇や国家に対する忠誠にすり替えられる原因ともなった。 一方、文明開化の影響による封建思想への批判もあり、たとえば福沢諭吉は『学問のすゝめ』で「義士」を批判している。福沢によれば内匠頭にしろ四十七士にしろ、刃傷や仇討ちに及ぶのではなく時の政府である江戸幕府に訴えを起こすべきだったとしている。 歴史学の立場からは明治22年に重野安繹の『赤穂義士実話』が登場し、ここにはじめて、赤穂事件は近代歴史学の俎上にのった。重野は文献実証主義の立場から『江赤見聞記』に基づいて芝居等の「忠臣蔵」における虚説を排したが、人々が慣れ親しんできた忠臣蔵のイメージを損ねたので重野は世間の憤激を買った。 その後信夫恕軒により、赤穂事件を講談のように面白く物語る『赤穂義士実談』が出ている。 総じて、忠臣蔵にとって明治時代は不遇の時代であったとされ、泉岳寺も荒廃の時期だったと回想している。同様に大石神社も、創建が許可されたのは1900年(明治33年)になってからであり、建築の募金も集まらず難航、神社完成は大正を待たねばならなかった。
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