明治維新による国家体制の変化
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「大日本帝国憲法」の記事における「明治維新による国家体制の変化」の解説
日本では、明治初年に始まる明治維新により、さまざまな改革が行われ、旧来の国家体制は根本的に変更された。慶応3年10月14日(グレゴリオ暦1867年11月9日)、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が明治天皇に統治権の返還を表明し、翌日、天皇はこれを勅許した(大政奉還)。同年12月9日(1868年1月3日)に江戸幕府は廃止され、新政府(明治政府)が設立された(王政復古)。新政府は天皇の官制大権を前提として近代的な官僚制の構築を目指した。これにより、日本は、封建的な幕藩体制に基づく代表的君主政から、近代的な官僚機構を擁する直接的君主政に移行した。大日本帝国憲法第10条は官制大権が天皇に属すると規定している。 明治2年6月17日(1869年7月25日)、「版籍奉還」がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地と人民に対する統治権をすべて天皇に奉還した。これは、幕府や藩などの媒介なしに、天皇の下にある中央政府が直接に土地と人民を支配し、統治権(三権分立の立法権・行政権・司法権)を行使することを意味する。さらに、明治4年7月14日(1871年8月29日)には「廃藩置県」が行われ、名実共に藩は消滅し、国家権力が中央政府に集中された。大日本帝国憲法第1条および同第4条は、「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定している。 版籍奉還により各藩内の封建制は廃止され、人民が土地に縛り付けられることもなくなった。大日本帝国憲法第27条は臣民の財産権を保障し、同第22条は臣民の居住移転の自由を保障している。 新政府は版籍奉還と同時に、堂上公家と諸侯を華族といった爵位が授与された特権階級に、武士を士族に、足軽などを卒族に、その他の人民を「大日本帝国臣民(日本国民)」として平民に改組した。明治4年(1871年)には士族の公務を解いて農業・工業・商業の自由を与え、また平民も等しく公務に就任できることとした。明治5年(1872年)には徴兵制度を採用して国民皆兵となったため、士族による軍事的職業の独占は破られた。このようにして武士の階級的な特権は廃止された。大日本帝国憲法第19条は人民の等しい公務就任権を規定し、同第20条は兵役の義務を規定した。帝国議会(下院:「衆議院」と上院:「貴族院」の両院制)の開設に先立ち、1884年(明治17年)には「華族令」を定めて華族を「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の5爵の爵位に再編するとともに身分的特権を与えた。大日本帝国憲法34条は華族の貴族院列席特権を規定した。ここで、この憲法では臣民(国民)の三大義務は納税・教育・徴兵であり、現憲法と違って勤労が入っていなかったことになる。特権階級は、勤労しなくてもよいという意味合いがある。
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