明治維新と木魚念仏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 02:41 UTC 版)
圓説和尚の思いは、後に幕府の倒壊と明治維新で全て日の目を見る事になるのである。不退圓説和尚の行蹟を掲げることにより明治政府の神仏判然令に発端する廃仏毀釈運動の高まりの中で、第一に浄土宗寺院の危機を乗り越えようとした。先ずは本山知恩院の変貌である。知恩院は徳川家の庇護の元、安穏とした時を過ごしてきたが、徳川家べったりだった知恩院が京寺院の中で一人蚊帳の外に置かれ針のむしろ状態であった。維新政府を助ける事も無く、本願寺系統寺院の天皇家に対する顕彰行為と比べても歴然としていた。宗祖の法然上人の功績や皇籍の歴代門主だけが頼りで、その存亡も危うかったが異端の罪を着せ追い払った本山が、この圓説和尚の顕彰行為の数々の功績に救われるのであるが。現在の浄土宗の基になる正法宣揚、法然上人と聖光上人の教えを説く吉水正流を本流となし、圓説和尚の行うところの木魚念佛で浄土宗を広めようとした知恩院は決してその事は表沙汰にして口には出さないだろうが、その事だけを取り上げて見ても合点がいく(事)だろう。 圓説和尚の生み出した木魚念仏を唱えることは、浄土宗寺院では今や普通に行われている。知恩院の御本堂には大きな木魚が鎮座在しまして日常に使用されている。
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