松崎藩とは? わかりやすく解説

松崎藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/19 05:02 UTC 版)

松崎藩(まつざきはん)は、江戸時代前期に16年間存在した、久留米藩支藩である。藩庁筑後国御原郡松崎(現在の福岡県小郡市松崎)の松崎陣屋に置かれた。






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松崎藩

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有馬豊祐」の記事における「松崎藩」の解説

寛文8年1668年)、頼利が17歳死去して頼元久留米藩主に就任した。これに際して同年8月21日幕命によって豊祐に筑後国御原郡1万石の所領分け与えられ、松崎藩が立藩された。同年12月27日従五位下伊予守叙任されている。 寛文8年1668年12月、はじめて所領入った豊祐は、まず御原郡横隈(現:小郡市横隈)の館に入るが、松崎(現:小郡市松崎)の地を治所と定め寛文9年1669年)春から居館建設着手した。4か年をかけて寛文12年1672年)に完成した松崎館(現在の福岡県立三井高等学校周辺)は二重の濠をめぐらせ大規模なもので、地元では「松崎城」とも称される寛文13年/延宝元年1673年)には、家老藤田右衛門命じ宝満川左岸東岸)に山家宿(現:筑紫野市山家)から松崎経由して府中宿(現:久留米市御井町)に至る松崎街道松崎往還、新筑前街道)を開設させている。延宝2年1674年)には宝満川右岸横隈街道筑前街道)を廃止して松崎街道参勤交代路とし、松崎宿を整備した松崎街道薩摩街道一部であり、秋月街道一部ともされる)。さらに宝満川流域水利工事を行うなど、藩政確立尽力した貞享元年1684年7月晦日姉婿にあたる土方雄隆陸奥窪田藩主)が家中騒動から改易処分受けたのに連座して、松崎藩も改易された。この事件は、土方雄隆が弟の林貞辰を養子迎えようとしたことから藩内で紛争起こったもので、豊祐は貞辰から紛争解決助力求められたがとりあわず、このことが親族ありながら仲裁尽力しなかったとしてとがめられたものである。豊祐は子の豊胤(のちの小出英致)とともに有馬頼元預けられ江戸から久留米身柄護送された。松崎館は破却され、松崎藩の旧家臣は召し放ちとなった。 豊祐親子久留米城三の丸配所蟄居していたが、土方雄隆死去後元禄5年1692年5月9日、豊祐親子赦免された。豊祐は江戸戻らずそのまま久留米城内の屋敷余生過ごした元禄13年1700年12月28日久留米において55歳死去した。子の豊胤(英致)は、小出英直(豊祐の実弟)の養子となり、1500石の旗本となっている。 松崎藩の旧領幕府直轄領となり代官治めたが、元禄10年1697年7月20日久留米藩還付された。

※この「松崎藩」の解説は、「有馬豊祐」の解説の一部です。
「松崎藩」を含む「有馬豊祐」の記事については、「有馬豊祐」の概要を参照ください。

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