米沢新田藩
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米沢新田藩(よねざわしんでんはん)は、米沢藩の支藩。外様。柳間詰。代々駿河守を称し、駿府城加番役を務めた。享保4年(1719年)に5代藩主吉憲が弟の勝周に領内の新田分1万石を分与して成立した。藩主は2代勝承以降は男子が生まれず、以後3代は宗家の歴代藩主の弟を養子に迎えている。新田藩主は米沢藩内では「支侯」と呼ばれた。 米沢城内二の丸に藩庁を置き、居所としていた。武鑑では江戸藩邸は麻布に上屋敷があったとしているが、これは宗家の中屋敷の一部を与えられたものである。後に上屋敷の所在表記は飯倉片町となる。 また、文政年間の武鑑で新田藩の家老である高梨左近が宗家の用人を兼務しているように表記されたり、上杉藩の史料「紹襲録」でも文政元年(1818年)に宗家の側役であった留守善次郎が新田藩主の勝義の用人になっているのが見られる。加えて、米沢城内に新田藩の役所や藩主御殿があり、上杉鷹山の隠居所である餐霞館は元は新田藩主の御殿であったものを流用したものであり、鷹山死去以降に支侯御殿に戻っている。 このように、特定の領地や城地を持たないだけでなく、支配機構や財政、家臣団、居住地、さらには後継者まで全て宗家の米沢藩に依存しており、江戸幕府の御三卿にかなり近い藩内分家であった。 明治維新後、宗家の所領削減もあって存続が難しくなり、明治2年(1869年)に米沢藩へ併合された。なお、廃藩後も子爵家として存続したが、宗家の当主の弟を養子とすることが支藩時代と同様に続いた。
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