米沢秋吉の撮影日誌
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「南京 (戦線後方記録映画)」の記事における「米沢秋吉の撮影日誌」の解説
南京陥落の1937年12月13日以降の日誌には、映画撮影班の次の内容が記されている。このうち、12月17日に撮影された入城式の場面は、はじめから天覧に供することが決まっていた 1937年12月13日 - 南京に入る前日。敗残兵(便衣兵参照)の暴行の話を聞き、器材が掠奪されることを恐れていた。 12月14日 - 南京に入る。南京は、南京城北部の掃蕩中であり、撮影班は掃蕩と思しき激しい銃声を聞いた 12月15日 - 城内の撮影開始。訪れた挹江門(ゆうこうもん)の附近ではまだ掃蕩が行われていた 12月16日 - 紫金山麓、郊外遊園地である中山陵と附近の音楽堂を撮影。その際には犬が悠々と歩いていた 12月17日 - 日本軍による南京入城式が撮影された。天覧に供するため、そのフィルムは直ちに空輸されている 12月24日 - 30万人の南京の避難民を撮影した。非常に哀れであった。子どもを探してキャラメルを与えている日本兵の風景を見た。美しい風景であった 12月31日 - 水道設備の建設風景を撮影した 1938年1月2日 - 中国人捕虜に対する施療風景を撮影した 当時の南京には日本の新聞記者やカメラマンが約120人も占領と同時に入城して取材にあたっていた。その中でこの映画の撮影班は軍特務部撮影班であったため、新聞社ニュース班の撮れないところでも自由な撮影が許される、ということも記されている
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