1938年1月
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「トラウトマン和平工作」の記事における「1938年1月」の解説
国民政府側では、期限だった1月10日までに回答するため議論が続けられたがまとまらず、より詳細な内容を日本政府に求めてきた。日本政府は譲歩し、期限を5日延ばし1月15日とすることを通告した。同時に、回答は明確な態度の表明でなければならないが、和解への前向きな表明であるかぎりにおいて、特定の問題についての反問であってもよいとの通告も行っている。 蔣介石は「日本側の条件は、わが国を征服して滅亡させるためのものだ。屈服してほろびるよりは、戦って敗れてほろびたほうがよい」、「断固として拒絶せよ」と述べた。日本では1月11日には参謀本部の要請によって日露戦争以来の御前会議が開かれる。参謀本部は御前会議開催について、「戦勝国が敗戦国に対し過酷な条件を強要する」ことを戒める意味がある、と説明した。 1月13日に開かれた閣僚会合では、1月15日までに国民政府から満足な回答がなかった場合、トラウトマンを仲介とする和平交渉を打ち切り、第2の手段に移行することが決定されたが、その翌日の1月14日、国民政府からディルクセンを経由して日本政府に回答があった。しかし、その内容は「さらに新条件11箇条の具体的細目を知りたい」という照会でしかなく不満足なものだった。 実はこの時期、国民政府の側では和平を唱える者が多数派で、1月14日に開かれた国防最高会議でも同様だった。実際、汪兆銘、張群、孔祥煕らが、具体的な反問を含んだ回答の作成に着手していたのだが、前線に出ていた蒋介石が介入して、反問を削除するように命じた。そのために、14日に国民政府が伝達してきた口上書は、10日のものとほとんど変わらないものになった。これが、日本政府が、国民政府は遷延策を弄しているだけだとの不信感を募らせる原因になった。 翌15日、大本営政府連絡会議が開かれ対応を協議したが、政府は最終的に交渉の打ち切りを決定した。 15日の大本営政府連絡会議の席上では、交渉の打ち切りを主張する広田外相と、継続を主張する多田参謀本部次長とが鋭く対立した。多田は、この機会を逃せば長期の戦争になる可能性があることを強調し、古賀軍令部次長もそれに同意したが、古賀は米内海相から説得を受け交渉打ち切り論を飲まされ、一旦留保して参謀本部に持ち帰った多田も、重大事局にあって政変をおこすわけにはいかないので統帥部としては不同意ながら政府の方針にあえて反対しない、との理由で政府の方針に従う結果になった。 席上、広田が「私の永い間の外交官生活の経験から見て、中国側の態度は、和平解決の誠意のない事は明らかであると信じます。参謀次長は外務大臣を信用することができませんか?」と発言。米内はこれに同調し「政府は外務大臣を信頼しております。統帥部が外務大臣を信用しないという事は、政府不信任である。それでは政府は辞職せざるを得ない」と発言。これに対し、多田駿参謀次長は「明治天皇は、かって辞職なしと仰せられた。この国家重大の時期に、政府が辞職するなど何事でありますか」と応酬したとされ、最終的に多田が内閣総辞職の政府側の圧力に屈した形になった。しかし、なお参謀本部は諦めず最後の賭として、昭和天皇への上奏により政府決定の再考を得ようとした。しかし、先に上奏した近衛によって、参謀本部の試みは阻まれた。このような打ち切りに際しては、蔣政権との和平交渉継続を強く主張し、第一次近衛声明の発表を断固阻止しようと食い下がる多田参謀次長に対し、米内海相が大本営政府連絡会議で「内閣総辞職になるぞ!」と恫喝して黙らせたことが知られる。 翌16日、近衛内閣は「帝國政府は爾後国民政府を対手とせず。真に提携するに足りる新興支那政権に期待し、これと国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす」と声明を発した(第一次近衛声明)。同日、広田外相はディルクセンに打ち切りを伝え、交渉は終了した。従来から、第1次近衛声明が平和的解決を破壊したと言われることが多いが、実際には同じ日の16日、蒋介石はトラウトマンに対して、日本政府が再び厳しい講和条件を繰り返すなら拒否すると伝えており、蒋介石に既に講和に向かう意思はなかった。 太平洋戦争(大東亜戦争)後、文官である広田弘毅は日中戦争を開始・拡大させた責任を問われ、極東国際軍事裁判において絞首刑に処された。
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