1938年から2000年末までのパンコウ区 (Stadtbezirk)
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1938年にベルリンの区の境界が変更された。ヴォランク通り (Wollankstraße) 付近のベルリン北部線の西側地域は、パンコウ区からヴェディング区(ドイツ語版)に所属が変更になった。ライニッケンドルフ区は北部線より東側の地域、ヴィルヘルムスルー地区(ドイツ語版)と南部に続くヴァルトシュティーク=ジードルング(Waldsteg-Siedlung, 「森の小道住宅地」)がパンコウ区に編入された。この他にボルンホルム通り(ドイツ語版)とヴィスビー通り(ドイツ語版)のプレンツラウアー・ベルク区との境界線に若干の変更があった。境界の変更によって区の人口は1,629人、また面積は81 haに増加した。なおパンコウ区とライニッケンドルフ区との旧境界線は、今日でもハウプト通り (Hauptstraße) がコペンハーゲン通り(ドイツ語版)に名称を変える部分に伺える。変更後、最初に建つのはヴィルヘルムスルー変電所 (Abspannwerk Wilhelmsruh) である。 第二次世界大戦の末期、1945年4月22日にパンコウ区はソ連赤軍に占領され、ベルリン分割占領の際には、ヤルタ協定に基づきソ連占領地域となった。1949年10月から1990年まで東ベルリンの区 (Stadtbezirk, 都市区) であった。東ベルリンの地位については議論の余地があるものの、事実上、東ドイツの一部であった。 1961年8月にベルリンの壁が建設されると、鉄道線のベルリン北部線に正確に沿った区の境界線は重要な意味を持った。Sバーンのヴィルヘルムスルー駅(ドイツ語版)、シェーンホルツ駅(ドイツ語版)は、その駅名にもかかわらず西ベルリンに位置するため、パンコウ区から利用できなくなった。Sバーンのヴォランク通り駅(ドイツ語版)はパンコウ区に立地するものの東口は同じく封鎖された。ただし西ベルリンからは利用可能であった。 1985年には、当時のパンコウ区からカーロウ地区(ドイツ語版)、ハイナースドルフ地区(ドイツ語版)、ブランケンブルク地区(ドイツ語版)が当時のヴァイセンゼー区(ドイツ語版)に編入された。これはヴァイセンゼー区の大部分が新設のホーエンシェーンハウゼン区(ドイツ語版)に編入されたための措置であった。 1990年10月3日のドイツ再統一にともない、パンコウ区は連邦州であるベルリンの一部となった。2000年9月16日にはベルリン地下鉄2号線がヴィネータ通り駅(ドイツ語版)からベルリン=パンコウ駅(ドイツ語版)まで延伸された。
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