1938年、22区グロース=エンツァースドルフ
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「ドナウシュタット」の記事における「1938年、22区グロース=エンツァースドルフ」の解説
ナチス政権下の「大ウィーン」時代には、ウィーンの新しい区分けがなされた。1938年10月15日に新設された22区グロース=エンツァースドルフは東部支線の北側に沿って分離された。その結果、カグランは21区に残されたままにされたものの、シュタットラウ、ヒルシュテッテン、アスペルンとローバウが22区になった。また、カイザーミューレンが2区から21区へと改編された。
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