1938年 - 1957年
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「立正佼成会」の記事における「1938年 - 1957年」の解説
創立の1938年から1957年の長沼副会長死去までの20年間を『方便教化の時代』と呼んでいる。方便とは、まず現実の苦しみを救うことをいう。 霊友会の有力な信者であった庭野鹿蔵(新井支部・副支部長)と、庭野の勧誘で共に霊友会を信仰していた長沼政は、彼らが所属していた新井支部(当時は支部をまとめる責任者の名前で支部名が呼称されていた)支部長で法華経行者であった新井助信の勧めもあり、1938年3月5日に「大日本立正交成会」(現在の名前に改称されたのは1960年6月1日)を創立した。会の創立に当り、庭野鹿蔵は「日敬」、長沼政は「妙佼」と改名して戸籍登録した。庭野開祖会長は、霊友会を離脱した理由について、霊友会会長・小谷喜美の「法華経の講義なんか時代遅れだ、そんなことをするのは悪魔だ」という発言を聞き、法華経への理解をおろそかにして、真の供養を行えるとは到底思えないと感じたからだとしている。 「揺るぎない信仰心」が培われた時代とされ、庭野日敬開祖会長(当時)と長沼妙佼脇祖(当時・副会長)の姓名判断・霊能指導によって、「貧病争」の苦しみから救い、仏道精進に導くというスタンスで布教活動を行っていた。当時、第二次世界大戦の影響で多くの人々が苦しい生活を強いられていたため、それらの人々を救うためには、方便が必要であったという。 一方で、戦後急激に拡大した教勢がマスコミの注目を集め、1956年、読売新聞が本部用地の取得にあたる不正疑惑を報道した。庭野開祖会長が国会に召喚され、事態を説明するに至っている。 1938年3月5日 庭野日敬は長沼妙佼 他30数名と共に「大日本立正交成会」を創立(会長 村山日襄、副会長 石原叔太郎) 3月20日 庭野日鑛:現会長(当時・浩一)が誕生 1942年5月7日 本部修養道場(現:発祥の地修養道場)落成・入仏式を挙行 1943年4月頃 村山日襄会長、石原叔太郎副会長がそれぞれ退任。後継として実質の運営・指導者である庭野と長沼がそれぞれ「開祖会長」「副会長」となり、名実ともに庭野会長・長沼副会長体制がスタートする 1945年11月15日 本尊「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」を尊牌形式で勧請 1948年8月11日 宗教法人令により、宗教結社「大日本立正交成会」から宗教法人「立正交成会」となる 1949年8月28日 青年部(現:青年本部)が発足 1951年6月5日 母子の無理心中を布教活動の行き過ぎによるものと報道され、日弁連人権擁護委員会や衆議院法務委員会が取り上げた(いわゆる蔵敷事件。母子心中と教団との直接の関係はなく、夫も訴訟をすぐに取り下げた) 10月17日 新宗連(新日本宗教団体連合会)が発足、加盟 1952年6月14日 長沼副会長の甥である長沼基之が教団初代理事長に就任 8月 交成病院(内科、外科、小児科、産婦人科、歯科、院長以下職員31名、病床数23床。現:立正佼成会附属佼成病院)開設 1956年1月 読売新聞が本部用地取得における不正疑惑を報道。庭野開祖会長が国会に参考人召致され事態を説明するに至り、教団においても当時の青年部リーダーが内部調査を行った 4月30日 衆院法務委員会に庭野開祖会長と長沼広志(立正佼成会本部・佼成学園理事)が参考人召致される 9月22日 立正交成会に対し、文部省は「人権蹂躙の疑い」を警告。8月に日弁連からの人権侵害事件に関して「圧迫的暗示や脅迫的なものがあった」と指摘する調査報告書が提出されたことを受けた措置 1957年9月10日 長沼副会長が死去。満67歳没。葬儀・告別式は、会員代表・各界の弔問来賓、延べ5千人が参列する。
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