1937年頃:支那事変期(日本米以外の主食の奨励)
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「節米料理」の記事における「1937年頃:支那事変期(日本米以外の主食の奨励)」の解説
節米運動開始後の支那事変期、節米料理として飯に米以外の具材を混ぜること(混食)や、米以外の食材を主食とすること(代用食)が奨励された。 混食は、飯に具材を混ぜるという意味では炊き込みご飯や混ぜご飯と同様だが、味や季節感を楽しむ炊き込みご飯と違って栄養やカロリーが重視され、当時の具材は芋類、豆類、穀類が主であった。ほかに野菜やシイタケ、油揚げ、野草、茶殻なども用いられた。一般の炊き込みご飯では具材は全体の4分の1から5分の1程度だが、当時の混食は具が全体の3分の1、ときには半分のこともあった。粥や雑炊も奨励されていたが、1940年(昭和15年)以降にはインディカ米を混ぜた米が販売されており、その食感から不人気であったため、これを食べやすくした混食や炒めご飯などのほうが多く食べられていた。米が外米のみのこともあり、不味の上に胃腸を壊す者もあったとの体験談もある。 代用食としては、パン、うどん、芋などが食べられた。女性雑誌上ではパン類やホットケーキ、お好み焼きといった粉物が紹介された。当時のグラフ誌『アサヒグラフ』でも1940年夏には節米の特集として、一般家庭の家族が楽しそうにひやむぎを食べる写真が掲載された。1940年8月には読売新聞紙上に『うまくて家庭向き米飯ぬき国策料理』が掲載され、代用食としてうどん、饅頭、マカロニなどの料理が紹介された。このように当時の代用食はまだ、彩りや味を考える余裕があり、こうした風潮は1941年(昭和16年)頃まで続いていた。
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