1938年のGATT
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「パウル・ファン・ゼーラント」の記事における「1938年のGATT」の解説
1934年3月にパウルがベルギー国立銀行の副総裁となった。6月にシャルル・ド・ブロクヴィル (2期) カトリック党・自由党連立政権で無任所大臣として入閣したが、政見の食い違いで秋に大臣を辞めてしまった。パウルはデフレ政策に反対していた。母校は通貨切り下げ運動を展開していた。パウルは野党労働党のアンリ・ド・マン(Henri de Man)と新政権を準備した。フランクフルト大学経済・社会学部の講師であったマンは、ナチスが政権を掌握したので4月に帰国していた。 1935年3月25日、パウルが首相となり、カトリック党と自由党に労働党を加えた三党連立政権を組閣した。パウルは外相を兼ねた。4月に通貨を28%切り下げて金プロックを離脱した。銀行の連鎖倒産が止まった。7月9日から発足した銀行委員会が銀証両分野を厳しく規制した。その分、国家の介入を緩めた。労働党の期待した公共事業や計画経済は慎ましく行われた。パウルは預金者を保護できればそれでよかった。その考え方は「ニューディール」であった。 1936年5月の総選挙で労働党は第一党になったが組閣に失敗した。6月13日に第二次パウル内閣が発足した。マンが財務相となった。労働党の躍進により、パウルは国務院と提携して行革センターを設置のうえ、労働基準の策定などフランス人民戦線と似た政策を展開した。銀行・大企業には干渉しなかった。9月25日、英米仏三国通貨協定が成った。1937年4月、英仏両政府がパウルに協定の実効性確保に向けた研究を依頼した。この4月、台頭しつつあったワロン地域の極右派レックス党の指導者レオン・ドゥグレル(Léon Degrelle)をカトリック教会が批判し、分裂しかけていたカトリック党の混乱が止まった。パウルは6月の訪米で政権各位と会談し、翌月から内政に忙殺されて経済官僚のモーリス・フレール(Maurice Frère)に報告書の作成を託した。7月21日、王のレオポルド3世がパウルに宛てて、目的達成までの続投を希望するとともに経済研究組織の新設を提案した。王は手紙の写しをフランクリン・ルーズベルト大統領とベニート・ムッソリーニへ送った。イギリスがベルギーを警戒したので、フレールまで忙殺された。 報告書は1938年1月26日に完成し、明後日に公表された。内容は関税及び貿易に関する一般協定のマスタープランともいえた。
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