米沢藩の治水事業とは? わかりやすく解説

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米沢藩の治水事業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:36 UTC 版)

最上川」の記事における「米沢藩の治水事業」の解説

現在の米沢市中心とする置賜地方には、関ヶ原敗戦によって会津若松120万石から30万石減封された上杉景勝米沢藩があった。改易こそ免れたものの石高4分の1減らされ、かつ家臣召し放ちもしなかったため、米沢藩成立当初から財政難を蒙っていた。こうした中で上杉氏家臣筆頭だった直江兼続は、最上川洪水から米沢城下を守り城下町発展させるため、最上川に「谷地河原石堤」を建設して治水対策講じた。この堤防は高さ1.5m~1.8m、堤防上部幅5.4m、堤防下部幅9.0mの石積み堤防であったこうした治水対策米沢藩の重要施策として新田開発と共に推進されたが、こうした施策における兼続役割大きく谷地河原石堤通称直江石堤」と呼ばれ遺徳偲ばれている。その後米沢藩徐々に財政好転するかに見えたが、米沢藩第三藩主上杉綱勝急死により室町時代以来名家御家断絶危機陥った吉良義央の子末期養子とする事で一件落着第四藩主上杉綱憲が就封したが、その代償として米沢藩陸奥国伊達郡信夫郡没収され石高15万石半減した。 これに輪を掛けて綱憲の浪費などが祟り米沢藩莫大な負債抱え様になり、第八藩主上杉重定江戸幕府への領地返上一度決意した程に藩は困窮してしまった。重定は養子として日向国高鍋藩主・秋月種美二男迎え第九藩主とした。この養子こそ上杉治憲号して上杉鷹山である。細井平洲招聘して質素倹約減税殖産興業推進図り、内には保守的な重臣粛清して藩政大改革実施した。 治憲が最も重要視したのは新田開発による収入増加であり、これを補完する為の用水路整備実施した。この灌漑整備活躍したのが治憲によって登用され米沢藩勘定頭黒井半四郎である。半四郎1794年寛政6年)より「黒井堰」の建設着手上堰と下堰の二方向に分水行って農業用水導水行った上堰総延長約5里(約20.0km)、下堰は総延長約4里(約16.0km)の用水路であり、6年歳月掛けて1800年寛政12年)に完成した。更に飯豊山地豊富な雪解け水利用する為、荒川支流である玉川から置賜白川導水する為の飯豊山穴堰」が1798年寛政10年)より建設着手され20年歳月掛け1818年文政元年)に完成したこうした灌漑設備整備によって米沢藩次第財政回復、治憲は「中興英主」として後世称えられた。

※この「米沢藩の治水事業」の解説は、「最上川」の解説の一部です。
「米沢藩の治水事業」を含む「最上川」の記事については、「最上川」の概要を参照ください。

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