米沢藩の治水事業
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現在の米沢市を中心とする置賜地方には、関ヶ原の敗戦によって会津若松120万石から30万石に減封された上杉景勝の米沢藩があった。改易こそ免れたものの石高を4分の1に減らされ、かつ家臣の召し放ちもしなかったため、米沢藩は成立当初から財政難を蒙っていた。こうした中で上杉氏の家臣筆頭だった直江兼続は、最上川の洪水から米沢城下を守り、城下町を発展させるため、最上川に「谷地河原石堤」を建設して治水の対策を講じた。この堤防は高さ1.5m~1.8m、堤防上部幅5.4m、堤防下部幅9.0mの石積み堤防であった。こうした治水対策は米沢藩の重要施策として新田開発と共に推進されたが、こうした施策における兼続の役割は大きく、谷地河原石堤は通称「直江石堤」と呼ばれ、遺徳が偲ばれている。その後、米沢藩は徐々に財政が好転するかに見えたが、米沢藩第三代藩主・上杉綱勝の急死により室町時代以来の名家は御家断絶の危機に陥った。吉良義央の子を末期養子とする事で一件は落着。第四代藩主・上杉綱憲が就封したが、その代償として米沢藩は陸奥国伊達郡・信夫郡を没収され石高は15万石に半減した。 これに輪を掛けて綱憲の浪費などが祟り米沢藩は莫大な負債を抱える様になり、第八代藩主・上杉重定は江戸幕府への領地返上を一度は決意した程に藩は困窮してしまった。重定は養子として日向国高鍋藩主・秋月種美の二男を迎え、第九代藩主とした。この養子こそ上杉治憲、号して上杉鷹山である。細井平洲を招聘して質素倹約と減税、殖産興業の推進を図り、内には保守的な重臣を粛清して藩政の大改革を実施した。 治憲が最も重要視したのは新田開発による収入の増加であり、これを補完する為の用水路整備を実施した。この灌漑整備で活躍したのが治憲によって登用された米沢藩勘定頭・黒井半四郎である。半四郎は1794年(寛政6年)より「黒井堰」の建設に着手、上堰と下堰の二方向に分水を行って農業用水の導水を行った。上堰は総延長約5里(約20.0km)、下堰は総延長約4里(約16.0km)の用水路であり、6年の歳月を掛けて1800年(寛政12年)に完成した。更に飯豊山地の豊富な雪解け水を利用する為、荒川の支流である玉川から置賜白川へ導水する為の「飯豊山穴堰」が1798年(寛政10年)より建設に着手され、20年の歳月を掛け1818年(文政元年)に完成した。こうした灌漑設備の整備によって米沢藩は次第に財政が回復、治憲は「中興の英主」として後世に称えられた。
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