米沢藩重臣の統治時代
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上杉家は、信達(しんたつ)の両郡には郡代や奉行として佐藤氏や小笠原(古川)氏を置き、信夫郡の福島城には本庄繁長や春日(高坂)氏、伊達郡の梁川城には芋川正親や須田氏らを城主(城代)として統治させた。 上杉定勝は彼らを肝煎として、福島盆地に西根堰(にしねぜき)水路を完成させ、耕地面積を飛躍的に拡大した。 寛文4年(1664年)、定勝の子(景勝の孫)綱勝が、子供の無いまま急死して断絶の危機を迎えたが、綱勝の舅保科正之(3代将軍徳川家光の実弟)の尽力により、綱勝の甥で妹婿吉良義央(上野介、扇谷上杉家の女系子孫)の子綱憲が綱勝に養子入りした結果、半知15万石で家名存続することを許された。その際、福島城を含む信夫郡・梁川城の伊達郡・高畠城のある置賜郡屋代が公収された。
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米沢藩重臣の統治時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/13 13:33 UTC 版)
上杉家は、信達(しんたつ)の両郡には郡代や奉行として佐藤氏や小笠原(古川)氏を置き、信夫郡の福島城、伊達郡の梁川城など両郡内の支城には、本庄氏や春日(香坂)氏、須田氏、芋川氏などを城主(城代)として統治させた。 寛文4年(1664年)、上杉景勝の孫・綱勝が、子供の無いまま急死して断絶の危機を迎えたが、綱勝の舅保科正之(3代将軍徳川家光の実弟)の尽力により、綱勝の甥で妹婿吉良義央(上野介、扇谷上杉家の女系子孫)の子の綱憲が綱勝に養子入りした結果、半知15万石で家名存続することを許された。その際、梁川城を含む伊達郡・福島城の信夫郡・高畠城のある置賜郡屋代が公収された。
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