養子入り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 09:51 UTC 版)
この頃、蘆名盛隆の子亀王丸が夭折したため、家中は養子を巡って二分することになる。伊達氏の小次郎を推す蘆名一門衆の猪苗代盛国、平田氏や富田氏ら蘆名宿老の大半、外様の国人領主ら伊達派勢力と、重臣で中央政権との繋がりの深い金上盛備ら義広を推す佐竹派勢力とに二分された。この後継者争いは金上の政略により義広派が勝利し、天正15年(1587年)、盛隆の養女と結婚して蘆名義広と名乗り、蘆名氏当主となる。 しかし他家からの養子であり、前述の後継者争いでの紛糾、当人の年齢も若かったために、家臣団を掌握することができずにいた。この際、伊達氏との仲が決定的に決裂することになった。さらに義広に付属して佐竹氏から送り込まれた大縄義辰らの家臣団が蘆名氏を支配し、伊達派の宿老らを次々と失脚させていった。
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