守矢氏と物部氏との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/08 22:27 UTC 版)
諏訪上社に神長(かんのおさ)という筆頭職に就いた守矢氏の家伝によると、物部守屋の次男の武麿(弟君(おとぎみ)とも)が丁未の乱の後、守屋山に逃れて、やがて守矢氏へ養子入りして神長となった。なお、守矢氏へ養子入りしたといわれる平忠度の子についてもまったく同じ伝承が語られている。これらには、神長となる者が通過儀礼として聖地とされた守屋山に籠っていた事が反映しているのではないかと指摘されている。 物部守屋を祀る守屋神社が立つ伊那市の片倉地区にも、物部守屋の子孫と名乗る守屋姓の家が多く存在する。また、山中には鍛冶技術を持った物部氏とは関係があると思われる「鋳物師(いもじ)ヶ釜」の地名が残っている。
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