守矢氏と神氏の祭政交代
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諏訪に伝わる入諏神話は、土着の氏族が外来侵入勢力に降伏して統治権を委譲した出来事に基づいていると考えられている。 諏訪上社の神長官(じんちょうかん)を務めてきた守矢氏はかつて諏訪・上伊那を中心とするミシャグジ祭政を統括した氏族であったと考えられている。守矢氏がミシャグジ奉斎を「専らの役」とし、諏訪の各郷村のミシャグジ信仰は守矢氏の手に握られていたと思われる。しかし、守矢氏が諏訪に進入してきた勢力(のちの神氏)との覇権争いに敗れた後、祭政権の交代が行われ、大祝(おおほうり)と呼ばれる幼い現人神を中心とする新しい体制が生まれた。 この大祝は、諏訪明神(建御名方神)の「御正体」(いわば身代わり)とされ、生き神として信仰の対象となった。この新しい体制の中で、大祝を祀る祭司・神長(かんのおさ)の位置に置かれた守矢氏は、古来の神ミシャグジを立てて、大祝の即位を執行し、祭事を司った。こうして大祝と守矢一体の祭政が確立した。 諏訪に進入した神氏を稲作技術をもたらした出雲系民族(弥生人)とする説や、三輪氏系統に属する一族とする説、大和朝廷に仕える馬飼集団の金刺氏(科野国造家の一派)とする説がある。 宝賀寿男が提唱した三輪氏系統の説においては、その侵入時期は諸説あるものの、概ね顕著な龍蛇信仰[要出典]、本殿を持たない神社、神話における出雲や三輪との関係性、須羽君・神人部などの氏姓を根拠とするものである。馬飼集団の説においては、金刺氏が伊那郡から天竜川を北上して諏訪に進入したのは6世紀後半(古墳時代後期)だとされているが、異論もある。そもそも南信側には皇祖神などを祀る古く規模の大きな神社が存在せず、国造に関する伝承や神社も存在しない。飯田古墳群の成立も5世紀代と遅く、諏訪氏(洲羽国造)との婚姻関係や崇神天皇時代の国造任命とする記事とのズレ、龍蛇信仰を伴う合理的な説明がなされていない。それに対し北信は4世紀代から埴科古墳群など畿内との関わりが深い前方後円墳が多数築造され、崇神天皇の時代と符合する。また北信には生島足島神社など皇室に所縁のある古社が存在し、科野大宮社など国造に関する伝説も存在する。 なおこの時代には横穴式石室の古墳が5世紀から6世紀中頃まで続いた在地型の周溝墓(いわゆるフネ古墳型古墳)に取って代わるが、これは金刺氏の影響だと考えられる。また、『信重解状』「御神宝物事」に見られる、「大明神が天降った時に真澄の鏡(銅鏡)・八栄の鈴・唐鞍・轡を持ってきた」という伝承が、諏訪に横穴石室古墳文化と飼馬技術を持ってきた人々の姿を表しているとも解釈されている。
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