守矢氏と神氏の祭政交代とは? わかりやすく解説

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守矢氏と神氏の祭政交代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 04:00 UTC 版)

洩矢神」の記事における「守矢氏と神氏の祭政交代」の解説

諏訪に伝わる入諏神話は、土着の氏族外来侵入勢力降伏して統治権委譲した出来事基づいていると考えられている。 諏訪上社の神長官じんちょうかん)を務めてきた守矢氏はかつて諏訪上伊那中心とするミシャグジ祭政統括し氏族であった考えられている。守矢氏ミシャグジ奉斎を「専らの役」とし、諏訪の各郷村ミシャグジ信仰守矢氏の手握られていたと思われる。しかし、守矢氏諏訪進入してきた勢力(のちの神氏)との覇権争い敗れた後、祭政交代が行われ、大祝(おおほうり)と呼ばれる幼い現人神中心とする新し体制生まれた。 この大祝は、諏訪明神建御名方神)の「御正体」(いわば身代わり)とされ、生き神として信仰の対象となった。この新し体制の中で、大祝祀る祭司神長(かんのおさ)の位置置かれ守矢氏は、古来の神ミシャグジ立てて大祝即位執行し祭事司った。こうして大祝と守矢一体の祭政確立した諏訪進入した神氏稲作技術もたらした出雲民族弥生人)とする説や、三輪系統属す一族とする説、大和朝廷仕え馬飼集団金刺氏科野国造家一派)とする説がある。 宝賀寿男提唱した三輪系統の説においては、その侵入時期諸説あるものの、概ね顕著な信仰[要出典]、本殿持たない神社神話における出雲三輪との関係性、須羽君・神人部などの氏姓根拠とするものである馬飼集団の説においては金刺氏伊那郡から天竜川北上して諏訪進入したのは6世紀後半古墳時代後期)だとされているが、異論もある。そもそも南信側には皇祖神などを祀る古く規模大きな神社存在せず国造に関する伝承神社存在しない飯田古墳群成立5世紀代と遅く諏訪氏洲羽国造)との婚姻関係崇神天皇時代国造任命とする記事とのズレ、龍信仰を伴う合理的な説明なされていない。それに対し北信4世紀代から埴科古墳群など畿内との関わりが深い前方後円墳多数築造され、崇神天皇時代符合する。また北信には生島足島神社など皇室所縁のある古社存在し科野大宮社など国造に関する伝説存在する。 なおこの時代には横穴式石室古墳5世紀から6世紀中頃まで続いた在地型の周溝墓(いわゆるフネ古墳古墳に取って代わるが、これは金刺氏影響だと考えられるまた、『信重解状』「御神宝物事」に見られる、「大明神が天降った時に真澄の鏡銅鏡)・八栄の鈴唐鞍・轡を持ってきた」という伝承が、諏訪横穴石室古墳文化と飼馬技術持ってきた人々の姿を表しているとも解釈されている。

※この「守矢氏と神氏の祭政交代」の解説は、「洩矢神」の解説の一部です。
「守矢氏と神氏の祭政交代」を含む「洩矢神」の記事については、「洩矢神」の概要を参照ください。

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