覇権争い
「覇権争い」とは、ある分野で頂点に立って他を圧倒する権力や影響力を勝ち取るために競い合うこと、および、その競い合い、を指す意味で用いられる表現である。覇権をめぐる争い。覇を握るための争い。覇者となるための争い。天下を取るための争い。
「覇権争い」において覇を争う者は、相並んで対立しているが、これに決着が着く(誰かが「覇権を握る」)と、勝者が敗者を支配下に置くか、あるいは圧倒的な権力・影響力・栄誉などを戴くことになる。
「覇権」が具体的に何を指すのかは、文脈によって違ってくる。
たとえば戦国時代における覇権争いといえば、武将や戦国大名による政治的支配権や領地および資源を巡る争いを指すことが多い。この場合「覇者」は天下統一を果たした者ということになる。
現代の国家間では政治・経済・産業をはじめとする各方面において国際的な支配権や影響力を巡る競争を「覇権争い」と表現することがある。この場合「覇者」は世界一の大国・強国ということになる。
産業の分野では、製品やサービスのシェアや業界内の優位性を巡り競合他社と競争することを「覇権争い」と表現することがある。この場合「覇者」は圧倒的な市場シェアを獲得した者ということになる。
テレビアニメの業界では、同クールに放送されたアニメ番組の中で最大の人気作を「覇権アニメ」と呼ぶ言い方が定着している。この「覇権アニメ」の座をかけたレースを「覇権争い」と呼ぶことがある。
覇権争いの「争い」の内容は、「競合する他者と戦って蹴落として上につく」ような闘争を指すこともあれば、単に「誰が一等になるか」という競争を指すこともある。
覇権争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 06:00 UTC 版)
「アーガー・モハンマド・シャー」の記事における「覇権争い」の解説
1779年にカリームが死ぬと、ザンド朝で後継者争いが起こった。アーガー・モハンマド・ハーンはこうなることを察知していたのか、カリーム没後の翌日にはシーラーズから逃亡する。そしてカージャール族をまとめ上げてイランの覇権争いに加わった。 1785年までには父時代のカスピ海南岸からエルブルズ山脈の一帯に勢力を確立した。そしてイラン中央部の制圧を目論み、2年後にはイスファハーンとテヘランを奪い、テヘランを都にした。1794年にはファールスとケルマーンを制圧し、ルトフ・アリー・ハーンを捕らえて処刑し、ザンド朝を滅ぼした。 その後、イランの北西部に進出。またイランの北東部にある要衝のマシュハドにも進出する。だが、この頃はロシア帝国による南下政策が脅威になっており、アーガーは1795年にロシアと関係の深かったグルジアに攻め込んでロシア帝国の脅威を排除した。 1796年にはマシュハド一帯を支配していたアフシャール朝のシャー・ルフ(ナーディル・シャーの孫)を捕らえて殺し、アフシャール朝をも滅ぼした。そしてイランのほぼ全土を制圧したことを背景にして、ムガン平原で戴冠式を行ない、カージャール朝を創始した。
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