養子問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/08 16:34 UTC 版)
寛永13年(1636年)、本家の佐賀藩主で伯父にあたる鍋島勝茂が、自分の九男・直朝を養子に迎えるように求めてくる。正茂は31歳になっても嗣子に恵まれなかったのである。しかし、正茂はそれを拒否した。自らはまだ31歳であり、仮に子が生まれなかったら弟の茂久を跡継ぎにしようと考えていたからである。しかし勝茂は正茂に圧力をかけ、直朝を強引に養子とさせた。翌寛永14年(1637年)に、皮肉にも長男の正恭が誕生している。 このため勝茂との間に対立が生じ、寛永17年(1640年)に直朝が勝茂の後ろ盾によって従五位下に叙任すると、正茂に対して隠居を求めてくる。理由は正茂が当時の大名としては最も低い従六位下であるためとしたが、これは勝茂が圧力をかけて正茂の叙任を阻んでいたためでもあった。正茂はこの要求を拒否し、逆に「勝茂はかつて逆賊に与して御家の存続を危うくしたのを、我が父によって助けられたのを忘れたのか」とまで発言し、そしてこの理不尽さを幕府に訴えた。これが勝茂のさらなる激怒を買い、勝茂はその後も正茂に対して圧力をかけるようになった。
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