養子入りまでの経緯
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青木一新には長男の一在を含む5人の男子がいたが、明和3年(1766年)までに全て早世した。一新自身が先々代・一都、先代・見典と2人の兄の相次ぐ死を経て家督を継いだこともあって、跡継ぎとして適当な男子が近親者にいないため、婿養子を迎えることになり、まず弘前藩津軽家と交渉したが破談になった。その後、明和6年(1769年)7月頃から青木家と宇和島伊達家の交渉が始まった。青木家は当初、宇和島藩主・伊達村候の庶子のうちで10代初め頃の男子を所望していた。当時まだ幼かった一新の次女の婿として釣り合い、また費用がかさむ幕府への出仕が幼少ゆえに当面避けられることが理由であったが、持参金の問題から話がまとまらなかった。 代わって伊達家から提案されたのが、村候の弟の伊織村銘であった。伊織にも何度か養子話はあったがまとまらず、部屋住みとして宇和島で暮らしていた。養子話の中には彦根藩主・井伊直定との縁組もあったが、井伊家の血筋を重んじた幕府から許可が下りず破談となった。伊織は既に35歳と高齢で一新と年齢が近く、娘とは年齢が開きすぎることから、青木家側は難色を示した。しかし一新の娘には、部屋住み時代にもうけ、家督相続にあたり家臣の養女にしていた庶出の長女のお薗もいた。そこで青木家側は、お薗を藩主家に戻した上で伊織をその婿養子とすることを新たに提案した。伊達家側も持参金の上積みなどに応じ、交渉はまとまった。青木家に入った伊織は、諱を一載、のち一貫と改めた。 一貫の「娘」のうち、渡辺春綱の正室となった一人は、養子話の際に最初に持ち出された一新の次女を一貫が養女にしたのだと一説にいわれる。
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