彦根藩主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 01:41 UTC 版)
藩主となった直弼は人事の刷新に着手した。国元にいた直亮の側役3名を直亮の病状を自分に報せなかったことを理由に罷免あるいは役替とし、筆頭家老・木俣守易を職務怠慢を理由に罷免し隠居謹慎処分とした。彼らの後任には新野親良など、長野義言の門人や部屋住み・世嗣時代からの側近など直弼に近い人物が充てられた。 嘉永3年(1851年)12月2日、直弼は家中に向けて8箇条の書付を出した。その中で直弼は、藩主・藩士・領民の一和を説いて藩士には積極的な意見の上申を奨励し、有意な上申や職務に精励する藩士には褒賞・人材登用の道を示して家中の意識向上を図り、そうした人材を育成するための藩校や家族の役割を重視する姿勢を示した。 また同日、亡兄・直亮の遺命であると称して藩金15万両を士民に分配した。これは、父・直中が家督相続した際の前例に倣ったもので、直亮の遺命としたのは士民に評判の悪かった彼の悪名を払拭し直弼の治世の始まりを宣言する狙いがあったとされている。 嘉永4年(1851年)6月11日、直弼は藩主として彦根に初入部した。帰国した直弼は9月15日からの5日間、愛知郡・神崎郡の村々を巡見した。以降、領内巡見は直弼在国時の恒例となり、安政4年(1857年)までに9回行われ領内のほぼ全域を見分している。 嘉永5年(1852年)、丹波亀山藩主・松平信豪の次女・昌子(貞鏡院)を娶った。この年の4月、長野義言を彦根藩士として召し抱える。以降、長野は直弼の側近として活動し、また藩の重役の多くが彼の門人によって占められるようになる。
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