彦根藩側
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 05:02 UTC 版)
襲撃により、藩主である直弼以外に8名が死亡し(即死者4名、重傷を負い数日中に死亡した者4名)、他に5名が重軽傷を負った。藩邸では水戸藩に仇討ちをかけるべきとの声もあったが、家老・岡本半介が叱責して阻止した。死亡者の家には跡目相続が認められたが、事変から2年後の文久2年(1862年)に、直弼の護衛に失敗し家名を辱めたとして、生存者に対する処分が下された。草刈鍬五郎など重傷者は減知の上、藩領だった下野国佐野(栃木県佐野市)へ流され揚屋に幽閉された。軽傷者は全員切腹が命じられ、無疵の士卒は全員が斬首・家名断絶となった。処分は本人のみならず親族に及び、江戸定府の家臣を国許が抑制することとなった。井伊家の菩提寺である東京都世田谷区の豪徳寺には変で亡くなった8名の慰霊碑が、直弼の墓の後方右手に寄り添うように建っている。
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