養子生活のはじまりと学問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 01:05 UTC 版)
「工藤平助」の記事における「養子生活のはじまりと学問」の解説
享保19年(1734年)、紀州藩江戸詰の藩医・長井基孝(長井大庵)の三男として江戸に生まれた(幼名は長三郎)。延享3年(1746年)、前藩主の侍医であった工藤安世(工藤丈庵)が仙台藩医になる際に妻帯が条件であったため、平助は51歳の安世が妻をめとるのとほぼ同時に13歳で工藤家へ養子に入った。実父・長井基孝と養父・工藤安世は友人同士であった。 平助の娘あや子(只野真葛)の随筆『むかしばなし』によれば、工藤安世は武芸に優れた博覧強記の名医として知られていたが、養子となった平助にはまったく医学を授けなかった。しかし、実家で学問らしきことをほとんどしていない平助に対し、朝、『大学』を始めから終わりまで通して3度講じ、翌日まで復習して試問に答えられる状態にしておくようにと自学自習を課して自分は出勤してしまうというスタイルで教え、10日ばかりで四書のすべてを授けて、それによって平助は3ヶ月程度で漢籍はすべて読めるようになったという。安世は平助にこのような方法で漢籍を教えたのみで、あとはもっぱら薬の調剤の手伝いをさせただけであったので、平助は医学を実父の長井基孝や当時著名だった中川淳庵、野呂元丈らについて学び、漢学は青木昆陽、服部栗斎らに師事して学んだ。蘭学については、杉田玄白・前野良沢より手ほどきを受けている。
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