津軽百助家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/19 02:53 UTC 版)
子孫は弘前藩の家老として存続し、津軽百助家と呼ばれている。 途中、黒石津軽家から朝儀(とものり、津軽寿世の子、著高の弟)が養子入りし、その孫の順朝は本家・津軽信順からの偏諱を受けている。朝儀以降は「朝」の字を通字としている。 また、この家は弘前・黒石の(どちらかの)家で継嗣が途絶えた場合に備えて立てられてもいる。実際、幕末に弘前・黒石両家で藩祖・為信の血統が途絶えた際、その血を引くこの家から血統の復活がはかられ、順朝の2人の子がそれぞれの家に養子入りしている。順朝の孫の類橘(るいきつ)の代で血統が絶え、他家から益男(池田源の次男)を養子に迎えた。
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