猪苗代盛国とは? わかりやすく解説

猪苗代盛国(いなわしろ もりくに) ????~????

平太郎 盛親 弾正忠
◇父:猪苗代盛頼? 室:金上盛定女、二階堂氏女 子猪苗代盛胤、盛直、亀丸
 猪苗代氏一族会津・蘆名氏庶流だが主家逆らい度々叛している。会津猪苗代城主。家督嫡子盛胤に譲るが、後妻の言に踊らされて、嫡子廃して猪苗代城奪還父子争った陸前伊達氏侵攻際し伊達成実羽根田直景を介してこれに寝返り、摺上原蘆名勢と戦う。先鋒としても活躍し伊達氏大勝一因作った。後に伊達家中で準一家に列せられた。

猪苗代盛国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/26 13:30 UTC 版)

 
猪苗代 盛国
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文5年(1536年
死没 天正18年(1590年)?
改名 盛親(初名)→盛国
別名 平太郎、弾正忠
主君 蘆名盛氏伊達政宗
氏族 猪苗代氏
父母 父:猪苗代盛清または猪苗代盛頼
盛胤、宗国、盛明
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猪苗代 盛国(いなわしろ もりくに)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将蘆名氏の家臣。猪苗代氏12代当主。父は蘆名盛詮の次男・猪苗代盛清とされるが、天文10年(1541年)に蘆名氏に対して謀反を起こした猪苗代盛頼ともいわれる。

生涯

猪苗代氏は桓武平氏三浦氏の流れを汲む蘆名氏の支流。蘆名氏の重臣であるが、自立傾向が強く度々反乱を起こしていた。

盛国も最初は蘆名盛氏の家臣として仕える。

天文20年(1551年)11月24日、元服に際し、盛氏の偏諱を与えられ、盛国と称した(会津旧事雑考)[1]

天正13年(1585年)、嫡男・盛胤に家督を譲って隠居したが、後妻の息子・宗国を溺愛し、同16年(1588年)に後妻の讒言に乗って盛胤を廃嫡しようと画策。盛胤に譲ったはずの猪苗代城ごと伊達氏に寝返り、その軍勢を招き入れ、摺上原の戦いでの蘆名氏惨敗の原因を作った。その際、宗国を伊達方に人質として差し出している。

天正17年(1589年)7月23日、伊達政宗により、猪苗代近辺に500貫文の地を加増され、伊達氏の準一門に列せられた[2]。のち、政宗の移封に際し、盛国も会津を去り、岩井郡東山(現・岩手県一関市、旧・東磐井郡東山町)で1000石を与えられた[3]。のち、知行半分を削られた[3]

子ども・子孫

盛国の次男は、はじめ、松王丸、平太郎、弾正を称した[3]。元服の際、政宗から一字を与えられ、越後宗国を名乗った[3]。その子孫は、代々伊達家の家臣として明治維新に至った[3]

その弟・縫殿盛明は、盛国から200石を与えられ別家を立てたが、一代で絶えた(伊達世臣家譜)[3]

脚注

参考文献

  • 猪苗代町史編さん委員会 編『猪苗代町史』《歴史編》猪苗代町史出版委員会、1982年1月20日。NDLJP:9642447 (要登録)

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