猪苗代盛胤とは? わかりやすく解説

猪苗代盛胤(いなわしろ もりたね) ????~????

左馬
◇父:猪苗代盛国 子:中野左衛門盛親
 磐城蘆名氏臣。1585年父より家督を受けるが、3年後、その父に城を奪われるその後は父との抗争続けた1589年上原合戦では、陸前伊達についた父に対し、あくまで蘆名氏従い戦うが敗北戦後流亡する。

猪苗代盛胤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/26 14:39 UTC 版)

 
猪苗代 盛胤
時代 安土桃山時代 - 江戸時代
生誕 永禄8年(1565年
死没 寛永18年(1641年)11月20日
墓所 福島県耶麻郡猪苗代町内野
官位 長門守、あるいは式部
主君 蘆名義広
氏族 猪苗代氏
父母 父:猪苗代盛国
兄弟 盛胤、宗国、盛明
盛親
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猪苗代 盛胤(いなわしろ もりたね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将蘆名氏の家臣。猪苗代氏13代当主(『伊達世臣家譜』)、あるいは14代当主(『耶麻郡誌』)[1]

官位は、長門守(『伊達世臣家譜』)、あるいは式部(葦名時代名家系譜抄録)[2]

生涯

永禄8年(1565年)、陸奥国猪苗代城城主・猪苗代盛国の子として誕生。

蘆名氏に仕え、天正13年(1585年)、父・盛国から家督と猪苗代城を譲られたが、後に盛国が後妻との子・宗国を溺愛するあまり盛胤の廃嫡を画策、これにより居城を奪われた。天正17年(1589年)、摺上原の戦いで父は伊達政宗に与したが、盛胤は蘆名方にとどまり先鋒として父の手勢などの伊達軍と戦い、負傷した。

蘆名氏が滅びると、仕官することなく、 内野 うつの村(現・猪苗代町内野)で終生過ごした[3][4]

寛永18年(1641年)11月20日、死去[5]。77歳[4]。同地に墓がある[3]

また、同町五輪原の国立磐梯青少年交流の家敷地内に盛胤を偲んで造られた五輪塔がある。

子ども・子孫

盛胤の子・作右衛門盛親は、磐城平藩藩主鳥居忠政に仕え、中野村を領して中野氏を称した[3]

盛親の曽孫・盛信の子・理八郎義都は、会津藩に仕えた[3]

脚注

  1. ^ 猪苗代町史編さん委員会 1982, p. 135.
  2. ^ 猪苗代町史編さん委員会 1982, pp. 135–136.
  3. ^ a b c d 猪苗代町史編さん委員会 1982, p. 152.
  4. ^ a b 平盛胤の墓”. 猪苗代観光協会. 2023年8月26日閲覧。
  5. ^ 猪苗代町史編さん委員会 1982, p. 136.

参考文献

  • 猪苗代町史編さん委員会 編『猪苗代町史』《歴史編》猪苗代町史出版委員会、1982年1月20日。NDLJP:9642447 (要登録)

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