摺上原合戦とは? わかりやすく解説

摺上原合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 14:07 UTC 版)

摺上原の戦い」の記事における「摺上原合戦」の解説

6月5日蘆名軍は猪苗代城から西におよそ2里の地にある高森山本陣置いて伊達軍待ち構え挑発のため、猪苗代湖畔民家放火した。 これに応じて政宗猪苗代城から出撃し、猪苗代盛国先鋒にして蘆名軍に攻めかかった。この時、伊達軍2万3000人、対す蘆名軍は別働隊警戒して黒川城留守残したため、1万8,000人と伊達軍がやや有利であった両軍ともに陣形魚鱗であったと伝わる。 摺上原緩やかな丘陵地帯であるが、開戦当初強風西から東にかけて吹いていた。そのため砂塵舞い上がり、東に陣取る伊達兵はまともに目を開けいられない態となる。そこに蘆名軍の先鋒である猪苗代盛胤攻めかかった因縁ある猪苗代親子同族間で激突することとなった蘆名軍は実質指揮執るのは大縄義辰ら佐竹氏から附属された家臣であり、第1陣は盛胤、第2陣金上盛備佐瀬種常・常雄、松本源兵衛ら、第3陣は富田氏実佐竹援軍、第4陣は岩城二階堂石川富田隆実であった。 これに対し伊達軍第1陣は盛国、第2陣伊達成実片倉景綱第3陣は片平親綱後藤信康石母田景頼、第4陣は屋代景頼白石宗実浜田景隆鬼庭綱元であった当初風向き西からの風)、そして盛胤や盛備らの活躍蘆名軍が圧倒的に有利だった。ところが第3陣の富田隊を含め松本・平田ら重臣衆や援軍による後詰め諸隊動かず傍観決め込み、さらに風向き西から東に変わったことを機に守勢回っていた伊達軍一斉に攻勢出た津田景康鉄砲隊率いて蘆名軍の真横から狙撃したため、蘆名軍の足並み大い乱れた。しかも傍観決め込んでいた富田氏実が、伊達軍戦わずに西に向かって独断撤退開始した。もともと蘆名軍は諸氏連合寄せ集めであり、劣勢になれば自軍被害惜しんですぐに撤退する。それは先年の人取郡山らの合戦でも実証済みである。また、これら傍観撤退組は佐竹氏出身蘆名義広養子入り当主相続の際、伊達氏からの養子迎え意見持った対立派閥であった故にそれ以降蘆名家中では義広擁立派閥佐竹氏から送り込まれ家臣団により冷遇されていた諸氏である。 富田隊の撤退続いて二階堂隊、石川隊も撤退しはじめた。こうなると義広撤退せざるを得ず蘆名軍は総崩れとなった。 ところで、摺上原から黒川逃れるには、日橋川を渡るしか道はない。義広は何とか渡れたが、富田氏実自軍渡り終えると落とした。そのため、逃げようとする蘆名軍は逃げ道なくなった。この時の伊達軍蘆名軍の激闘様子は『奥羽永慶軍記』では 「会津勢、日橋川行き詰まり、とても死する命をと踏み止まり、敵と組み刺し違ふもあれば、日橋川落ちて大石岩角に馬を馳せ当て自滅するもあり。歩者は川へ飛び入り逆浪打ち倒され流れ死するもあり。 伊達勢も川の中迄追入り、討ちつ、討たれつ、突きつ、突かれつ、多く河岸川中にての軍なれば、只凡人の業とも見えずここにして会津勢千八百余人討るれば、伊達勢も五百余人討れたり」 とある。ただし、日橋川落としたのは伊達軍工作隊によるものという説もある。

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