摺上原合戦
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6月5日、蘆名軍は猪苗代城から西におよそ2里の地にある高森山に本陣を置いて伊達軍を待ち構え、挑発のため、猪苗代湖畔の民家に放火した。 これに応じて政宗も猪苗代城から出撃し、猪苗代盛国を先鋒にして蘆名軍に攻めかかった。この時、伊達軍は2万3000人、対する蘆名軍は別働隊を警戒して黒川城に留守を残したため、1万8,000人と伊達軍がやや有利であった。両軍ともに陣形は魚鱗であったと伝わる。 摺上原は緩やかな丘陵地帯であるが、開戦当初は強風が西から東にかけて吹いていた。そのため砂塵が舞い上がり、東に陣取る伊達兵はまともに目を開けていられない状態となる。そこに蘆名軍の先鋒である猪苗代盛胤が攻めかかった。因縁ある猪苗代親子は同族間で激突することとなった。 蘆名軍は実質指揮を執るのは大縄義辰ら佐竹氏から附属された家臣であり、第1陣は盛胤、第2陣は金上盛備と佐瀬種常・常雄、松本源兵衛ら、第3陣は富田氏実と佐竹の援軍、第4陣は岩城・二階堂・石川・富田隆実らであった。 これに対し、伊達軍は第1陣は盛国、第2陣は伊達成実と片倉景綱、第3陣は片平親綱、後藤信康、石母田景頼、第4陣は屋代景頼、白石宗実、浜田景隆、鬼庭綱元らであった。 当初は風向き(西からの風)、そして盛胤や盛備らの活躍で蘆名軍が圧倒的に有利だった。ところが第3陣の富田隊を含め、松本・平田ら重臣衆や援軍による後詰め諸隊は動かずに傍観を決め込み、さらに風向きが西から東に変わったことを機に、守勢に回っていた伊達軍が一斉に攻勢に出た。津田景康が鉄砲隊を率いて蘆名軍の真横から狙撃したため、蘆名軍の足並みが大いに乱れた。しかも傍観を決め込んでいた富田氏実が、伊達軍と戦わずに西に向かって、独断で撤退を開始した。もともと蘆名軍は諸氏連合の寄せ集めであり、劣勢になれば自軍の被害を惜しんですぐに撤退する。それは先年の人取橋・郡山らの合戦でも実証済みである。また、これら傍観・撤退組は佐竹氏出身の蘆名義広の養子入り当主相続の際、伊達氏からの養子を迎える意見を持った対立派閥であった。故にそれ以降蘆名家中では義広擁立派閥や佐竹氏から送り込まれた家臣団により冷遇されていた諸氏である。 富田隊の撤退に続いて二階堂隊、石川隊も撤退しはじめた。こうなると義広も撤退せざるを得ず、蘆名軍は総崩れとなった。 ところで、摺上原から黒川に逃れるには、日橋川を渡るしか道はない。義広は何とか渡れたが、富田氏実は自軍が渡り終えると橋を落とした。そのため、逃げようとする蘆名軍は逃げ道がなくなった。この時の伊達軍と蘆名軍の激闘の様子は『奥羽永慶軍記』では 「会津勢、日橋川に行き詰まり、とても死する命をと踏み止まり、敵と組みて刺し違ふもあれば、日橋川に落ちて大石岩角に馬を馳せ当て、自滅するもあり。歩者は川へ飛び入り、逆浪に打ち倒され、流れ死するもあり。 伊達勢も川の中迄追入り、討ちつ、討たれつ、突きつ、突かれつ、多くは河岸・川中にての軍なれば、只凡人の業とも見えず。 ここにして会津勢千八百余人討るれば、伊達勢も五百余人討れたり」 とある。ただし、日橋川の橋を落としたのは伊達軍の工作隊によるものという説もある。
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