摺鉢山の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 17:00 UTC 版)
2月20日、準備砲爆撃の後に第28海兵連隊が摺鉢山へ、他の3個海兵連隊が元山方面の主防衛線へ向けて前進した。海兵隊は夕方までに千鳥飛行場を制圧し、摺鉢山と島の中央部に位置していた小笠原兵団司令部との連絡線が遮断された。摺鉢山の日本軍は兵団司令部付きの厚地兼彦大佐率いる摺鉢山地区隊(独立歩兵第312大隊および独立速射砲第10大隊など)1,700人が守備にあたっていた。アメリカ軍は揚陸したばかりのM101 105mm榴弾砲などあらゆる火砲を海岸に設置して摺鉢山を直接照準で砲撃したが、艦砲射撃にも耐えてきた日本軍陣地に大きな損害を与えることができなかった。健在の日本軍陣地は引き続きアメリカ軍に出血を強いて、その戦闘の報告を聞いた市丸海軍少将は「本戦闘ノ特色ハ敵ハ地上ニ在リテ友軍ハ地下ニアリ」という報告を大本営へ打電している。 やむなくアメリカ軍は、摺鉢山の陣地を1個ずつ虱潰しに撃破することを余儀なくされ、海兵隊員は火炎放射器で坑道を焼き尽くし、火炎の届かない坑道に対しては黄燐発煙弾を投げ込んで煙で出入口の位置を確かめ、ブルドーザーで入口を塞いで削岩機で上部に穴を開けガソリンを流し込んで放火するなどして攻撃したが、日本軍ではこうした方法を「馬乗り攻撃」と呼んだ。日本軍はこれに対抗するため、海兵隊員が背負っている火炎放射器の背中のタンクを狙い撃ちした。海兵隊員に多くの死傷者が出たが、20日中には揚陸されたアメリカ軍の新兵器である火炎放射器装備のM4シャーマン(有名なオイルライターの商標に因んで「ジッポー戦車」と呼ばれた)が海兵隊員の支援に登場すると戦況はアメリカ軍に有利に傾き、日本軍はあらゆる砲火と対戦車特攻を駆使して戦うも「ジッポー戦車」はビクともせず、火炎放射器で日本軍の陣地を焼き尽くした。また、上空には観測機が張り付いて正確な日本軍陣地も位置を攻撃機に送り続け、空襲による損害も増加して、この2日目までに摺鉢山の主要陣地は破壊されてしまい、司令の厚地は戦車砲弾の直撃で戦死、守備隊も生存者は800人と半減していた。日本兵は夜間になると、少人数で海兵隊に斬りこみを行ったが、海兵隊が警戒し始めると効果は薄くなり始め、帰ってこない日本兵が徐々に増えていった。この夜襲は日本軍にとっても死傷率の高い作戦であり、所属部隊が全滅後に他の隊と合流した将兵や、陸戦に慣れていない海軍兵が主に指名されたという。 21日まではまだ日本軍は残された火器で散発的な抵抗を行い、アメリカ軍に大きな進撃を許さなかったが、アメリカ軍は22日に摺鉢山地下洞窟の入り口7か所を全て爆破して閉鎖、壕内にガソリンや黄燐を注入して生存していた日本兵を苦しめた。完全に摺鉢山の包囲に成功した第28海兵連隊の第2大隊長チャンドラー・W・ジョンソン(英語版) 中佐は、翌23日に摺鉢山山頂への到達を第2大隊E中隊長のデイブ・セヴェランス(英語版)大尉に命じ、山頂に到達したら掲げるようにと星条旗を手渡した。午前10時15分、第2大隊E中隊は遂に摺鉢山頂上へ到達し、付近で拾った鉄パイプを旗竿代わりに、28×54インチ(約71×137センチ)の星条旗を掲揚した(本記事冒頭の写真)。硫黄島攻略部隊に同行していたジェームズ・フォレスタル海軍長官は、前線視察のため上陸した海岸でこの光景を目撃し、傍らにいたスミスに「これで(創設以来、アメリカ軍部内で常にその存在意義が問われ続けてきた)海兵隊も500年は安泰だな」 と語り、この旗を記念品として保存するように望んだ。そこで、揚陸艇の乗員が提供した先の旗の2倍もある5×8フィート(約152×244センチ)の星条旗を改めて掲げ、先の旗と入れ換えることになった。午後12時15分にAP通信の写真家・ジョー・ローゼンタールが、まさに「敵の重要地点を奪った海兵隊員達が戦闘の最中に危険を顧みず国旗を掲げた」瞬間を捉えた 有名な写真とあわせ写真3枚を撮影した。この写真は同年ピューリッツァー賞(写真部門)を受賞している(硫黄島の星条旗)。 摺鉢山山頂に星条旗を掲げるまでに800人の海兵隊員が犠牲となったが、この歴史的瞬間で海兵隊員の士気は大いに高まった。海兵第5師団の副師団長レオ.ハールム准将は星条旗が上がる瞬間を目撃して「自分の生涯で記憶に残る指折りのすばらしい光景」と感じ「見渡す限り島全体からすごい歓声があがった」と述べている。のちに世界銀行の総裁となったバーバー・コナブル(英語版)は海兵隊中尉として摺鉢山で戦ったが、このときの状況を「私が最も尊敬していた将校や軍曹や戦友などはこの戦いですべて戦死してしまった」「私は60時間以上睡眠をとっておらず、星条旗が掲げられたときは仮眠をとっておりその瞬間を見ていなかったが、目を覚ますと感動のあまり泣き出してしまった」と回想している。 摺鉢山がわずか4日で陥落したのは栗林の想定外であり、いつも温和であった栗林としては珍しく報告を受けると怒声を発して、参謀の中根兼次中佐と山内保武少佐を督戦のため前線に走らせた。栗林が考えていた、上陸したアメリカ軍をせまい平地に閉じこめて、摺鉢山と北部主要陣地からの集中砲火で大打撃を与えるといった作戦は水泡に帰してしまったが、栗林は冷静さを取り戻すと「あと1日持ち堪えてくれたら」とぼやきながらも、作戦の修正に着手している。 摺鉢山山頂を制圧したがアメリカ軍ではあったが、山頂に星条旗が掲げられた時点で摺鉢山の地下陣地にはまだ300人以上の日本兵が潜んでおり、日本兵はアメリカ軍に封鎖された洞窟入口のうち3個の開口に成功し、夜間にアメリカ軍の目を盗んで脱出に成功すると北部の主力に合流した。その後も摺鉢山付近での散発的な日本軍の抵抗はまだ継続していた。硫黄島に派遣された経験を持つ秋草鶴次によると、24日の早朝、気が付くと山頂に日章旗が翻っているのを、玉名山から目撃したという。『十七歳の硫黄島』では、その後、摺鉢山へアメリカ軍のロケット砲攻撃があり、再び星条旗が掲げ直され、その星条旗は24日中そのまま掲げられていたが、翌25日早朝の摺鉢山頂上では又も日の丸の旗がはためいていたため、これはその周辺にいまだに頑張っている日本兵がおり、日の丸を揚げに夜中、密かに山頂へ来ていたのではないか、と秋草は推測して書いている。その以降の戦闘の後、アメリカ軍によってもう一度星条旗が掲げられ、それが日章旗に代わることはもうなかったという。摺鉢山の攻略はアメリカ軍に大きな達成感を抱かせたが、摺鉢山は硫黄島の戦いの主戦場などではなく、これからさらに激しい戦いが繰り広げられることとなった。 摺鉢山の戦いの途中の2月22日に、アメリカ軍は「2月21日1800現在、硫黄島での損害推定は戦死644、負傷4108、行方不明560」とアメリカ国内に公式発表したが、あまりの甚大な損害にアメリカ国内に衝撃が走った。アメリカ軍に対して批判が高まり、兵士の親からの批判の投書も殺到している。 どうぞ神の聖名にかけても、硫黄島のような場所で殺されるために、わたしたちの最も優秀な青年を送ることはやめていただきたい。どうしてこの目的が、他の方法で達成できないのですか。これは非人道的であり、恐るべきことです。やめてください。やめてください。 この母親の投書にたいしては海軍長官のフォレスタルが「小銃、手榴弾を持った兵士が、敵陣に殺到して確保する以外に、戦いに勝つ最終的な道は残されていません。近道も、より容易な方法もありません。何かよい方法があるといいのですが」と返信をしている。 その「何かよい方法」について、一旦はルーズベルトによって却下された毒ガスの使用議論が再燃することとなり、シカゴ・トリビューン紙は「彼ら(日本軍)をガスで片付けろ」という社説を紙上に掲載し「毒ガスを非人道的とする非難は誤りでもあるし、的外れでもある」「ガスの使用は数多くのアメリカ国民の命を救うと同時に、日本人の命もある程度は救う可能性がある」などという主張を行っている。
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