蘆名家の内訌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 16:46 UTC 版)
反伊達勢力の主力をなす蘆名家は当時、深刻な内訌を抱えていた。天正3年(1575年)に蘆名盛興が死去し、嗣子がなかったため二階堂家から人質としてあった盛隆が家督を継いだ。天正8年(1580年)には隠居の盛氏が死去し、盛隆も天正12年(1584年)10月6日に側近の大庭三左衛門に暗殺された。このため蘆名家は盛隆の生後1か月の遺児である亀王丸が継ぐ事になるが、その亀王丸も天正14年(1586年)11月21日に3歳で夭折してしまった。こうなると他家から養子を迎えるしかなく、候補に挙げられたのが伊達政宗の同母弟・小次郎と佐竹義重の次男・義広であった。小次郎と義広は政宗の曽祖父・伊達稙宗の血を受け継いでおり、その稙宗は盛氏の叔母を正室にしていた。つまり、曽祖母を介して両者は蘆名家の血統を受け継いでいたのである。血統が互角である両者の対立は、そのまま蘆名家の家臣団の分裂にもつながった。小次郎には蘆名一門衆の猪苗代盛国、蘆名四天の宿老の大半、外様の国人領主などが味方し、義広には蘆名一門衆で執政である金上盛備が味方していた。盛備は執政として外交も担当しており、当時中央で権力を確立していた豊臣秀吉と誼を通じており、その秀吉との関係を背景にして小次郎の派閥を切り崩し、義広を蘆名家の新当主とした(なお、伊達小次郎に関しては、蘆名盛隆が殺害された時も政宗の父・伊達輝宗が蘆名家の当主に擁立しようと図り、佐竹義重によって阻止されて亀王丸が擁立されたとする小林清治の研究がある)。 その結果、義広が蘆名家に入嗣すると同時に佐竹家から転身してきた大縄義辰らにより、小次郎派に対する粛清が開始される。四天の宿老家では佐瀬家を除く三家が中枢から排除されて失脚する。また小次郎を支持した国人層は遠ざけられて佐竹家から転身した家臣で中枢は占められ、これは蘆名家の内訌をさらに激化させる事になった。 伊達政宗が蘆名家の居城・黒川城を攻めるには、猪苗代湖の北にある猪苗代城は何としても落とさないといけない要衝だった。当時の猪苗代城主は猪苗代盛胤で、天正13年(1585年)に父の猪苗代盛国から家督を譲られて城主になった人物である。しかし盛国は隠居ながらなおも隠然たる影響力を持っており、先の継嗣争いでも小次郎派に与していた。ところが継嗣争いで敗れ、また盛胤とも不仲になり、隠居を次第に後悔するようになっていく。また盛国は後妻が生んだ盛胤の異母弟・亀丸を溺愛し、盛胤を廃嫡して亀丸に家督を譲りたいと思うようになった。そのため天正16年(1588年)5月10日、盛胤が黒川城に出仕している間に盛国は猪苗代城を乗っ取ってしまった。家臣の大半は盛国に従い、あくまで盛胤を支持する家臣は斬られ、激怒した盛胤は盛国を攻めるが猪苗代城は奪還できず、金上盛備が仲介に入ってひとまず父子は和睦した。 政宗はこの盛国の後妻に近づいた。そして後妻を通じて盛国に内応を呼び掛け、盛国が遂に応じたのである。
※この「蘆名家の内訌」の解説は、「摺上原の戦い」の解説の一部です。
「蘆名家の内訌」を含む「摺上原の戦い」の記事については、「摺上原の戦い」の概要を参照ください。
- 蘆名家の内訌のページへのリンク