蘆名義広の攻勢とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 蘆名義広の攻勢の意味・解説 

蘆名義広の攻勢(2月 - 4月)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 03:46 UTC 版)

郡山合戦」の記事における「蘆名義広の攻勢(2月 - 4月)」の解説

天正16年1588年2月伊達政宗大崎氏内紛介入して敗北すると(大崎合戦)、これを好機見た蘆名義広大内定綱先鋒とする4000の兵を伊達領に進めた。定綱は12日苗代田城を攻略後続合流して伊達方郡山城窪田城高倉城・本宮城攻め立てた伊達南方抑え担当する二本松城主・伊達成実兵力は、大森城片倉景綱宮森城白石宗実からの援軍合わせてもわずか600人ほどであったが、成実防戦して2ヶ月の間何とか蘆名攻勢をしのぎ続けていた。しかし、北方では大崎方の援軍として参戦した最上義光伊達領内各所攻略され、さらには小手森城石川光昌相馬義胤頼って離反したため、政宗自身相馬方への備え回っており、南方戦線への援軍期待出来なかった。 この状況打開すべく、成実政宗説いて、定綱へ伊達郡内の保原・懸田等の所領与える旨の判物取り付けたうえで、定綱に伊達氏への帰参持ちかけた。折しも蘆名家中では、義広に従って佐竹から入った新参と、蘆名譜代傘下奥州諸侯との間の対立深刻化していたこともあり、定綱は成実調略に応じて伊達方転じた4月18日蘆名勢は離反した定綱と伊達勢とを討つべく本宮城に攻め寄せたが、阿武隈川河畔で定綱率い1000余の兵によって撃ち払われ敗走した

※この「蘆名義広の攻勢(2月 - 4月)」の解説は、「郡山合戦」の解説の一部です。
「蘆名義広の攻勢(2月 - 4月)」を含む「郡山合戦」の記事については、「郡山合戦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「蘆名義広の攻勢」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「蘆名義広の攻勢」の関連用語

蘆名義広の攻勢のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



蘆名義広の攻勢のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの郡山合戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS