蘆名義広の攻勢(2月 - 4月)
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「郡山合戦」の記事における「蘆名義広の攻勢(2月 - 4月)」の解説
天正16年(1588年)2月、伊達政宗が大崎氏の内紛に介入して敗北すると(大崎合戦)、これを好機と見た蘆名義広は大内定綱を先鋒とする4000の兵を伊達領に進めた。定綱は12日に苗代田城を攻略、後続と合流して伊達方の郡山城・窪田城・高倉城・本宮城を攻め立てた。伊達領南方の抑えを担当する二本松城主・伊達成実の兵力は、大森城主片倉景綱・宮森城主白石宗実からの援軍を合わせてもわずか600人ほどであったが、成実は防戦して2ヶ月の間何とか蘆名の攻勢をしのぎ続けていた。しかし、北方では大崎方の援軍として参戦した最上義光に伊達領内各所を攻略され、さらには小手森城主石川光昌が相馬義胤を頼って離反したため、政宗自身は相馬方への備えに回っており、南方戦線への援軍は期待出来なかった。 この状況を打開すべく、成実は政宗を説いて、定綱へ伊達郡内の保原・懸田等の所領を与える旨の判物を取り付けたうえで、定綱に伊達氏への帰参を持ちかけた。折しも蘆名家中では、義広に従って佐竹から入った新参と、蘆名譜代・傘下の奥州諸侯との間の対立が深刻化していたこともあり、定綱は成実の調略に応じて伊達方に転じた。4月18日、蘆名勢は離反した定綱と伊達勢とを討つべく本宮城に攻め寄せたが、阿武隈川河畔で定綱率いる1000余の兵によって撃ち払われて敗走した。
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