蘆名家断絶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 09:59 UTC 版)
蘆名義勝は寛永8年6月(1631年7月)に亡くなるが、このとき義勝には嗣子がなく、側室安昌院がその4か月後に男子(のちの蘆名盛俊)を産んだため、かろうじて断絶は避けられた。しかし、この盛俊も慶安4年(1651年)にわずか20歳で亡くなってしまう。このとき、蘆名家再興の望みが断たれたとして、家臣岩橋又右衛門、宮崎主殿介および盛俊の草履取りが殉死している。盛俊死後、1歳の嫡男千鶴丸が家督を継ぐが、千鶴丸も承応2年(1653年)天寧寺に参詣にした折、縁側から敷石(沓脱石)に転落死してしまった。千鶴丸はこのときわずか3歳で後継者もなく、名門蘆名氏はここに完全に断絶した。 蘆名家に代わって角館に入部したのは佐竹北家であった。明暦2年(1656年)、仙北郡長野村紫島に配されていた北家の佐竹義隣が3,600石で角館に封じられた。佐竹北家の菩提所は仙北市角館町西勝楽町に所在する久米山常光院(曹洞宗)である。開基を失った天寧寺はこののち地域住民によって維持されていった。
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