蘆名氏崩壊
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天正15年(1587年)夏、中央で権力を掌握しつつあった豊臣秀吉の支援を受けた上杉景勝は1万余の大軍をもって新発田重家の本拠地である新発田城を包囲した。周囲の諸城は上杉勢に次々攻略される中、蘆名氏は金上盛備を赤谷城の救援に派遣するが、上杉氏の藤田信吉に阻まれて撤退、赤谷城は陥落し、補給路を失った新発田重家は孤立し、10月25日に自害した。 天正16年(1588年)2月から7月にかけて安積郡郡山城・窪田城一帯で蘆名氏・相馬義胤・佐竹氏連合軍と伊達軍との間で起こった郡山合戦では大内定綱の離反もあり敗北した。 天正17年(1589年)に入ると伊達氏の攻勢・調略はさらに苛烈となり、猪苗代盛国らが伊達氏に付く。旧暦6月5日、伊達政宗との間に起こった総力会戦ともいえる摺上原の戦いに臨むも、蘆名四天王の富田氏実らは勝手に撤退、多くの隊が傍観するなど家臣らの離反が相次ぎ、金上盛備や四天王の佐瀬種常・常雄らが戦死するなど大敗した。 義広とその近臣は戦場を逃れたが、もはや本拠の黒川城を守備する兵力を維持することは不可能であった。そのため、大縄義辰や二本松義綱を含めた一行は6月10日の夜に紛れて実家佐竹氏の常陸に逃れた。常陸に逃れる際に随従した従者の数を、『会津史』は20人あまり、『会津合戦記』は女中を併せて119人と記述している。黒川城は伊達氏により占拠され、山内氏勝らの例外はあるものの、針生盛信ら多くの蘆名家旧臣や諸豪族は伊達氏に恭順した。奥州蘆名氏はその支配地域を失い、奥州の戦国大名としての蘆名氏は滅亡した。
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