蘆名氏崩壊とは? わかりやすく解説

蘆名氏崩壊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 09:51 UTC 版)

蘆名義広」の記事における「蘆名氏崩壊」の解説

天正15年1587年)夏、中央権力を掌握しつつあった豊臣秀吉支援受けた上杉景勝1万余の大軍をもって新発田重家本拠地である新発田城包囲した周囲諸城上杉勢次々攻略される中、蘆名氏金上盛備赤谷城救援派遣するが、上杉氏藤田信吉阻まれ撤退赤谷城陥落し補給路を失った新発田重家孤立し10月25日自害した天正16年1588年2月から7月にかけて安積郡郡山城窪田城一帯蘆名氏相馬義胤佐竹氏連合軍伊達軍との間で起こった郡山合戦では大内定綱離反もあり敗北した天正17年1589年)に入ると伊達氏攻勢調略はさらに苛烈となり、猪苗代盛国らが伊達氏に付く。旧暦6月5日伊達政宗との間に起こった総力会戦ともいえる摺上原の戦いに臨むも、蘆名四天王富田氏実らは勝手に撤退多くの隊が傍観するなど家臣らの離反が相次ぎ金上盛備四天王佐瀬種常・常雄らが戦死するなど大敗した義広とその近臣戦場逃れたが、もはや本拠黒川城守備する兵力維持することは不可であった。そのため、大縄義辰や二本松義綱含めた一行6月10日夜に紛れて実家佐竹氏常陸逃れた常陸逃れる際に随従した従者の数を、『会津史』は20人あまり、『会津合戦記』は女中併せて119人と記述している。黒川城伊達氏により占拠され山内氏勝らの例外はあるものの、針生盛信多く蘆名家旧臣や諸豪族伊達氏恭順した。奥州蘆名氏はその支配地域失い奥州戦国大名としての蘆名氏滅亡した

※この「蘆名氏崩壊」の解説は、「蘆名義広」の解説の一部です。
「蘆名氏崩壊」を含む「蘆名義広」の記事については、「蘆名義広」の概要を参照ください。

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