秀吉との関係
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龍澤寺には「寛政二年戌戴 大閤真像 現在大安叟 願主前龍之叟」と記された秀吉木像が残っている。造像は寛永2年(1625年)。また秀吉の位牌もあり、「勅賜豊国大明神前大閤相国国泰寺殿雲山俊龍大居士尊儀」と記されている。なお、同寺には寺の権利を保障した秀吉の朱印状も残っている。
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秀吉との関係
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秀吉が氏郷を会津に移封した理由については様々な説がある。『老人雑話』によると、秀吉が会津に誰を配すべきか諸将に投票させたところ、そのほとんどが細川忠興と書いてあったので、これを見た秀吉はそれらを明なき者として氏郷を選んだ。『会津四家合考』には、秀吉は始め細川忠興に与えようとしたが、忠興は奥州の要である会津を守護する自信がないといって辞退し、氏郷もまた同様の理由で辞退したが、秀吉の気色を損ねてはと思い、「自分は武功の家臣を多く持っていないので、もしもの場合にこの要地を警固することには自信がない。今天下には主人の勘当をうけて浪人となっているの剛勇の者は数多くみられる。これらの面々の勘当を解くよう仰せられ、自分に召し抱えを許されるならば、会津を充分に守護しよう。それなくしては拝領のことは辞退するのほかはない」と言った。秀吉もこのことを納得し、「文臣・武臣を共に召し抱えよ」との条件を加え、氏郷も了承し、佐久間安政・勝之兄弟や水野三右衛門などの浪人や罪人達が許されて氏郷に仕えたという。 秀吉は信長が認めた器量人である氏郷を恐れていた。会津92万石に移した際、「松島侍従(氏郷)を上方に置いておくわけにはいかぬ」と側近に漏らしたと伝わる(『名将言行録』)。 ある時、秀吉が家臣たちにふざけ半分で、「100万もの大軍の采配をさせたい武将は誰か? 遠慮なく言ってみよ」と言った。家臣達は、当時の豊臣時代の中で大きな力を持っていた前田利家、徳川家康などの名を口にしたが、秀吉は頭を横に振って、「違う。それは、あの蒲生氏郷だ」と答えたという(大谷吉継である説もある)。 秀吉が氏郷を評して、「蒲生氏郷の兵10万と、織田信長様の兵5千が戦えば、勝利するのは織田軍である。蒲生側が織田兵4千の首を取っても、信長様は必ず脱出しているが、逆に織田側が5人も討ち取れば、その中に必ず氏郷の首が含まれているからだ。」と語ったという(『名将言行録』)。 ある時、氏郷は自邸に前田利長・細川忠興・上田主水・戸田武蔵を招き宴を設けた。それが終わる頃、秀吉のあと誰が天下を取るかが話題となり、氏郷はその器量から前田利家をおした(『利家夜話』『老人雑話』)。
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秀吉との関係
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高野山降伏の使者として面会して以降、秀吉との間柄は急速に進展。天正14年(1586年)7月21日には、応其は大阪城に登城。秀吉が謁見の際に、諸大名と聖護院道澄、里村紹巴、里村昌叱が控える前で「高野の木食と存ずべからず、木食が高野と存ずべし」と述べたという。高野山を舵取りするようになった応其が、天下人である秀吉の後ろ楯を必要としたことを物語るものといえる。 『古今和歌集』の現存最古のテキストである高野切本古今和歌集のうち、巻九の巻頭の17行分の断簡は秀吉が所持していた。この断簡は後に応其に下賜され、高野山に伝来したため「高野切」の名が生じた。 秀吉の没後には、京都東山の阿弥陀ヶ峰(現在の豊国廟)での埋葬の事務を取り仕切り、廟所(豊国神社)の建築にも力を注いだという。
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