秀吉との結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 12:01 UTC 版)
永禄4年(1561年)8月、織田信長の家臣・木下藤吉郎(豊臣秀吉)に嫁ぐ際、実母・朝日に身分の差で反対されるも、兄の家定が自らも秀吉に養子縁組すると諭したため無事に嫁いだ(通説では14歳)。当時としては珍しい恋愛結婚であった。結婚式は周囲に反対された事と夫の身分の低さから藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであった。ふたりの間には子供が無かったので、加藤清正や福島正則などの秀吉や自身の親類縁者を養子や家臣として養育していった。 永禄11年(1568年)頃から数年間は、美濃国岐阜に在住。この間、信長に従って上洛していた秀吉は京で妾を取り、石松丸秀勝をなしている。 天正2年(1574年)、近江国長浜12万石の主となった秀吉に呼び寄せられ、秀吉の生母・なかと共に転居した。この後は遠征で長浜を空けることの多い夫に代わり、城主代行のような立場にあった。天正10年(1582年)の本能寺の変の際には長浜城にいたようで、明智方の阿閉氏が攻めてきたので、大吉寺に避難をしている。
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