秀吉による大仏造立の発願
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豊臣秀吉は天正14年(1586年)に、松永久秀の焼き討ちにより焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願。当初は東山の東福寺南方にある遣迎院付近に造立する予定で、小早川隆景を普請奉行とし、大徳寺の古渓宗陳を開山に招請した。大仏と大仏殿の造立はいったん中止され遣迎院の移転も途中で中止(おかげで遣迎院は南北に分立)された。のち天正16年(1588年)に、場所を蓮華王院北側にあった浄土真宗・佛光寺派本山佛光寺の敷地に変更して再開(佛光寺は秀吉の別荘「龍臥城」のあった現在地へ移転)した。秀吉は大規模工事に巧みであった高野山の木食応其を造営の任にあたらせた。大仏殿は鴨川東岸地区を南北に貫く大和大路に西面して建てられ、また大和大路の西側には秀吉の手により伏見街道も整備され、さらに秀吉は五条大橋を六条坊門に移し京外への出口とするとともに大仏への参詣の便とした。 小田原征伐を挟んで天正19年(1591年)5月に大仏殿の立柱式が行われ(言経卿記)、文禄2年(1593年)9月に上棟(多聞院日記、三宝院文書)、文禄4年(1595年)に完成をみた。秀吉によって造立された初代大仏は、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の大きさであったという(愚子見記)。また、刀狩で没収した武器を再利用して釘にしたものも使われた。なお、造営期間短縮のため(既に50代になっていた秀吉が、自身の生前に落慶を間に合わせるためか)、大仏は当初計画されていた銅造ではなく木造乾漆造り(木造で躯体を作り,漆喰で固めた上,さらに漆を塗って金箔を貼る)で造られた(『太閤記』)。また初代大仏殿は南北45間(約88m)、東西27間(約55m)の規模であろうと考えられている。これは大仏殿跡の発掘調査の結果、後述の秀頼再建の2代目大仏殿は創建時の礎石をそのまま使用しているとみられ柱位置は同じと思われること、「愚子見記」に再建大仏殿の規模について、上記寸法が記載されていることによる。初代大仏殿は資料が少なく建物構造などの全貌の把握が困難であるが(2代目大仏殿は指図(設計図)が残るほか、建物外観が名所図会などに描かれ資料が多い。ただし大仏自体を正確に記録した絵図はほぼない)、大林組が広報誌「季刊大林」にて、各種文献史料・考古学的知見・建築学的知見から復原案を提示している(「秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元」)。 同年9月25日には秀吉自身の亡父母や先祖の菩提を弔うため寺内の南北15間東西21間の巨大な経堂で千僧供養会を行った。天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、浄土真宗(一向宗)の僧が出仕を要請された(日蓮宗不受不施派は出仕を拒否した)。千僧供養は以後豊臣家滅亡まで、毎月行われた。千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所が、妙法院に残る。当時の敷地は広大なもので、妙法院はもとより、現在の豊国神社、京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含むものであった。現在の方広寺、豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣であり、また三十三間堂南に遺る太閤塀(重要文化財)や南大門(重要文化財・豊臣秀頼が築造)も方広寺造営の一環として整備されたものである。なお、東寺の南大門(重要文化財)は方広寺西門として建築されたものを明治になって東寺に移築したものである。なお初代大仏殿は資料が少なく建物構造などの全貌の把握が困難であるが(2代目大仏殿は指図(設計図)が残るほか、建物外観が名所図会などに描かれ資料が多い。ただし大仏自体を正確に記録した絵図はほぼない)、大林組が広報誌「季刊大林」にて、各種文献史料・考古学的知見・建築学的知見から復原案を提示している(「秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元」)。
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